無感動

マルクス・アウレーリウスはいう。「怒るのは男らしいことではない。柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、同じく一層男らしいのである。そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気を備えているが、怒ったり不満をいだいたりするものはそうではない。なぜならばその態度が不動心(アパテイア)に近づけば近づくほど、人は力に近づくのである。悲しみというものがひとつの弱さであると同様に怒りもまたしかり、すなわち双方とも傷を受けることであり降参することなのである」(『自省録』)。

愛する勇気(自由意志の感情)

アランはいう。「いずれにせよ愛する勇気(自由意志の感情)は、忠実であろうと、すなわち、疑いのなかでも好意的に判断し、愛する対象のなかに新しい美点を発見し、自分自身をこの対象にふさわしくしようと多少とも明白に誓うことによって、われわれをこの哀れむべき情念の状態から引き出してくれるのである。この愛こそ真実の愛であって、それは人の知るように、肉体から魂へと高まり、否、魂を生み出し、それを愛自身の魔法によって不死のものにするのである」(『定義集』)。

馬と騎手

馬と騎手についてウィトゲンシュタインはいう。「何らかの理由で人々が自分に対してあまり優しくないとき、特別には優しくないとき、いかに自分が意気消沈してしまうかに今日改めて気づいた。なぜ自分はこんなに不機嫌になるのか、と自問した。私の答えは、「自分がまったく不安定だから」というものだった。その時、自分は馬に乗った下手な騎手とまったく同じように感じているのだ、という喩えが浮かんできた。馬の機嫌がよければ、事はうまく行く。だが馬に少しでも落ち着きがなくなると、騎手は不安になり、自分の不安定さに気づき、自分が完全に馬に依存していることに気づく」(『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』)。
同じくアランはいう。「馬から落ちるのではないかという恐怖は、ぎこちない、均衡を欠いた動きから生まれるのだ。それによって、落馬から救われると、自分では思いこんでいる。最悪なのは、このような動きをすると、馬のほうがおびえてしまうことだ/馬に乗れる人はいっさいの叡智を、ほとんどいっさいの叡智をもっている」(『幸福論』)。

結局「ニート」も「フリーター」もいなかった

どの時代にも労働をしたくない者もいれば、好きな仕事しかやりたくないという者もいるだろう。しかし、ある時代に急にそのような趣向の者が爆発的に増加したとされ、「ニート」や「フリーター」と名指された。個人的には労働の拒否や好きなことをして生きることに大いに共感するが、果たして実際にそのような者がどれだけ多くいるのか。
好きなことをして生きるには金がいる。金がない者は好きなことをして生きれない。金がある程度万人に回る時、つまり好況時には好きなことをして生きる可能性が高まるが、その時は「ニート」は存在せず、「フリーター」は否定的には捉えられていなかった。「ニート」や「フリーター」など否定的に語られる存在が可視化されるのは、決まって金が回らない時、つまり不況時である。そのような時、労働を拒否し自分のやりたいことしかやらない者が増加するとみなされるが、なぜ金がないのにそのような無茶がきくのだろうか。
金が回り始めたとされる現在、労働を拒否し、自分のやりたいことしかやらない輩はどれほど増えているのだろうか。それとも反省も含めて、勤労でやりたくない労働をする者が増え始めたので金が回り始めたのか? そうではないだろう。金が回れば、結局「ニート」も「フリーター」もいなかったことになる。金が回らない決して少なくない一部の層を除いては。

左翼とはマイナーである

ドゥルーズがどこかで「左翼とはマイナーであることが必要だ」といっていた。自分自身のことをいえば、性質か環境かは判らないが、マイナーである(あらざるをえない)ことを志向する(してしまう)ので、日頃は「私は左翼である」と思っている。もちろん無意識にメジャーな言説や立場に立っていることもあり、「私は左翼である」というのは、いわば「私的言語」であるが、自分で意識している中ではマイナーであることによって疑いもなく左翼なのである。
しかし、個人差があってどこまでが無意識か意識かの客観的な基準は明瞭ではないが、個人的には、無意識ではなくはっきりとした意識で、メジャーな立場に立っていることを認識することもある。非常にありふれた例だが、労働の場で、下っ端から部下を持つ立場になるとか、そうした立場になった場合、左翼であると自己規定しても何ら効力がない。パワーハラスメントや、部下が女性である場合(場合によっては男性でも)、セクシャルハラスメントといった言説に集約されるメジャー/マイナーの非対象な関係のメジャーな立場に自分を置くことになってしまい、その関係から逃れることはできない。もちろんメジャーであることは仮初な立場であり、もっと大きな構造からしてみれば、メジャーな立場を強いられるマイナーな存在なのかもしれない。そうはいってもメジャーな立場からものを見ざるをえないのは自分の意識の中では変わらない。ドゥルーズは「左翼であることは政治の問題ではなく、知覚の問題である」と同じところでいっていたが、左翼であることは確かにどれだけ知覚できるか、認識できるかということなのかもしれない。もちろん、それは政治を軽んじていいということを意味しない。左翼であることを掲げている政党や個人が、メジャーな立場に身を置いた場合どう振る舞うのか? それは知覚の問題であろう。

オレンジジュース

入浴後に決まった銘柄のオレンジジュースを一杯だけ飲む習慣がある。そのオレンジジュースは、近所の酒屋に毛が生えたような小さなスーパーで買っているのだが、だいぶ前から品切れしている。同じ銘柄のリンゴジュースなど他の種類のものは棚いっぱいに売っているので、自分ひとりが毎週オレンジジュースを買うせいで、オレンジジュースだけがその店の売れ筋になり、他の種類のものとの在庫数に差が出てきているのだなと勝手に思っていたが、いつになってもオレンジジュースの入荷がない。
やや足を伸ばして大手スーパーに行ってみると、同じ銘柄の他の種類のジュースは売っているのだが、やはりオレンジジュースだけがない。この銘柄のオレンジジュースは全国的に売れ筋のヒット商品なのだろうか? と思っていたが、どうやらそんなローカルなことではないらしい。
幾つかのウェブサイトには次のようなことが書かれている。「オレンジの主産地のフロリダなどハリケーンの被害とともに、バイオエタノール需要の拡大によって、バイオエタノールの原料のサトウキビへのオレンジからの転作が、オレンジの価格の高騰をまねいている・・・」。本当にそうしたグローバルな原因で近所のスーパーのオレンジジュースが品切れになっているのか判らないが、次にスーパーに行くとき、店主であろう親父に品切れの理由を訊いてみようと思う。