個人主義

「(個人主義とは)党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団体を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです」(夏目漱石「私の個人主義」)。

トロツキーと野生の蘭

「他の人びとに対する自分の道徳的責任を、何であれ自分が心を尽くし魂を尽くし精神を尽くして愛している特異な物事や人物に対する自分の関係にまで結びつけようとする誘惑は、むしろ退けようと努めるべきなのだ。この二つが偶然一致する人びとも中にはいるだろうーたとえば、神への愛と他の人間への愛とが不可分であるような幸運なクリスチャンとか、社会正義のことを考える以外は何ものにも心を動かされない革命家の場合のように。しかし、それらが一致しなければならないわけではないし、一致させようと懸命になりすぎるべきでもない」(リチャード・ローティトロツキーと野生の蘭」『リベラル・ユートピアという希望』)

所有欲と愛

「すべて愛と呼ばれるもの。ー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう! ーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。/だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情である」(ニーチェ『悦ばしき知識』)。

現在

キルケゴールはいう。「反復されるものは存在していたのである、でなければ、反復されないであろう」(『反復』)。マルクス・アウレーリウスはいう。「つねに最初の知覚に留まり、自己の中から何ものをもこれに加えないようにすれば、君には何ごとも起こらないのである」(『自省録』)。ドゥルーズはいう。「ストア派があらゆるしるしはひとつの現在のしるしであるということを指摘したのであり、これがストア派の偉大な成果のひとつなのである(傷跡はしるしであるが、過去の傷のしるしではなく、「傷を負ったという現在的な事実」のしるしである」(『差異と反復』)。

期待、追憶、反復

「期待は追う手をすり抜けてゆくかわいい娘である。追憶は美しくはあるが今ではもうけっして用を足せない老婆である。反復はいつまでも飽きることのない愛妻である」(キルケゴール『反復』)。

これが人生であったか、ではもう一度

「そのような深淵から、そのような重い病衰から、また重苦しい疑惑のための衰耗から、われわれは新たに生まれて立ち戻って来るー脱皮して、より感じやすくなって、より悪辣になって、悦びに対する一そうデリケートな舌をもって、一そう快活な感覚をそなえて、悦びにおける第二の一そう危険な無垢の境地を獲得して、以前にあったよりも一そう子供らしく、しかも百倍垢抜けして」(ニーチェ『悦ばしき知識』)。