2005-02-01から1ヶ月間の記事一覧

日野周辺農村の農民層分解

日野周辺においても3石未満が過半数を超え農民層分解が著しく進展している。 日野各村農民階層表(1870(明治3)年) 85~90石 1軒(0.2%) 55~60石 1軒(0.2%) 50~55石 0軒(0%) 45~50石 2軒(0.3%) 40~45石 2軒(0.3%) 35~40石 1軒(0.2%) 30~35石 0軒(0%) 25~30石 5…

八王子周辺農村の農民層分解

合計数字は年代的には1849(嘉永2)年〜1873(明治6年)に渡り統一されていないが、少なくとも、幕末から維新にかけて地域差を伴いながらも農民層分解が著しく進んでいたことが伺える。50~100石 44戸(0.2%) 30~50石 10戸(0.5%) 20~30石 13戸(0.7%) 10~20…

天保期における生産構造の変化

天保中期以降、[生糸商人(生糸販売)→八王子縞市→在方縞買(生糸購買)→織物生産農民(織物生産)→在方縞買(織物集荷・販売)→八王子縞市]*1という関係がほぼ成立した。この生産構造の変化=問屋制賃織生産への転換は、市場の拡大、品質均一化要求の増大…

多摩地方における農民経済の変化

武州多摩郡小比企村(八王子市) 安永期(1772〜1780年) 1773(安永2)年以降、現物納が田畑とも年貢を貨幣で納めるようになった。また名主、八王子商人、さらには江戸・神奈川・川越等の米商人によるかを問わず、米が領主の手を直接経ること…

水呑百姓率からみる農民層の分解

本百姓(田畑所有)と水呑百姓(田畑無所有)との比率をみると、多摩郡横山村の水呑百姓の比率は、江戸周辺地域と比較しても非常に高い。また、一概に比較できないが、この比率は農民層の分解が最も進んでいる大坂周辺の河内・摂津・和泉の比率に近い。これ…

農民層の分解

大内力『日本における農民層の分解』東京大学出版会、1969 農民層の分解は、抽象的にいえば、自己の生産手段を所有し、自己の労働によって生活をささえていた農民のうち、その一部分が富裕になって資本家ないし地主に上昇していくとともに、他の一部分が…

いわゆる「絹の道」

1859(安政6)年の横浜開港により生糸が主要輸出品となり、八王子の生糸商人(鑓水商人)たちは「浜道」と呼ばれた道を通って生糸を横浜まで運搬した。この道は戦後「絹の道」と呼ばれるようになった。生糸が主要な輸出商品となった要因は、生糸生産が…

歴史における反復

柄谷行人は、「近代文学の終わり」(『早稲田文学』,2004.5;4〜29)において、資本の支配的形態に関する興味深い指摘を、井原西鶴、尾崎紅葉、北村透谷を通して行っている*1。その部分を要約する。 北村透谷は、尾崎紅葉の「伽羅枕」を「粋」と呼…

必然的に国家を経由する暴力

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー―資本主義と分裂症』 必然的に国家を経由する暴力があり、この暴力は資本主義的生産様式に先行し、「根源的蓄積」を構成し、資本主義的生産様式そのものを可能にしている。資本主義的生産様式の中に入…

むさし野の涙

『多摩と甲州道中』によれば、多摩郡内藤新田(国分寺市)の百姓惣代を務めた、神山平左衛門(宇宙天とら雄)による「むさし野の涙」(1885(明治18)年編纂)には、御門訴事件(1869(明治2)年から翌年)の記録と共に、武州一揆(1866(慶…

農民日記から見る時勢の認識

新井勝紘・松本三喜夫編『多摩と甲州道中 (街道の日本史)』によると、上椚田村(八王子市)の千人同心の家の「石川日記」(1720(享保5)年から1912(明治45)年まで)、小野路村(町田市)名主で同寄場組合惣代である小島政則の「小島日記」(18…

網野史学の衝撃

網野善彦『日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)』より 周知のように、網野善彦は、江戸時代にいたるまでの「百姓」の中には、「農業」を生業とする農人だけではなく、商人、職人、問屋、廻船人、漁民、髪結、宿屋等の多様な生業に従事する人々が含まれ、また、…

明治維新の原動力

『現代日本思想体系20 マルキシズム1』より 羽仁五郎「幕末における社会経済状態・階級関係および階級闘争」 (1932年『日本資本主義発達史講座』第4回)「百姓一揆」 かの徳川封建制支配の三世紀を通じ、そして幕末に近づくやいよいよ激烈にいたる…