いわゆる「絹の道」

negrict2005-02-09

1859(安政6)年の横浜開港により生糸が主要輸出品となり、八王子の生糸商人(鑓水商人)たちは「浜道」と呼ばれた道を通って生糸を横浜まで運搬した。この道は戦後「絹の道」と呼ばれるようになった。生糸が主要な輸出商品となった要因は、生糸生産が国際的に見て低コストで行われていたことが挙げられる。当然、生糸の価格は世界資本主義の動きで変動するので、この道はある意味、世界に繋がっていた。1867年には蚕種輸出価格が前年比26倍に暴騰した。こうした中で多摩地域の農民層の分解は加速したと考えられる。またこの道を通って横浜から多様な情報が多摩地方に運ばれ、後の自由民権運動キリスト教との邂逅の背景ともなる。