網野史学の衝撃

網野善彦日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)』より
 周知のように、網野善彦は、江戸時代にいたるまでの「百姓」の中には、「農業」を生業とする農人だけではなく、商人、職人、問屋、廻船人、漁民、髪結、宿屋等の多様な生業に従事する人々が含まれ、また、果樹栽培、薪炭生産、養蚕、織物、棉作、菜種、煙草の栽培等は、「農間稼」(農家の副業)とされたが、それらを生業として「農」を副業とする人々も少なからず存在したことを指摘した。
 そのような「長い列島社会の歴史のなかで蓄積されてきた高度な手工業の技術、生産方法、あるいは商業・信用経済の極度の発達した実態を継承し、また高いレベルの読み書き算盤の能力をもつ一般人民の広大な基盤に支えられて、はじめて存立、発展しえたのであり、もとよりすべてが(明治以降に)「一新」されたわけでは決してなかった」。
 しかし、明治政府は「百姓」をすべて農民として扱い、江戸時代の農村は農民を中心とする自給自足な「封建制度」の時代として、江戸時代の都市化された社会を全面的に否定し、意識的か無意識的かは考慮の余地があるが、いわば農本主義イデオロギーを刷り込ませた。その偏向による「常識」は、未だ研究者を含む圧倒的多数の日本人の歴史認識をとらえ続けていて、マルクス主義においても例外ではない(また網野自身がそのような講座派の歴史認識から出発していることは周知の通り)。
 「このように考えてくると、明治以後、敗戦にいたる過程だけではなく、敗戦後の政治・社会の動向についても、前述した「常識」化した誤った思いこみを捨て、「日本」そのものを歴史的な存在と見る視点に立って、徹底した再検討を行うことが、今後の緊急な課題として浮かび上がってくる」。網野は「それらの仕事はすでに開始されているといってよかろう」というが、無意識にもこの「常識」にとらわれている言説が未だに主流であるように思える。
 スガ秀実は『革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論』で、網野の日本共産党=講座派史学からの脱却の試みは、「リオリエント」的転回にほかならず、「それは即ちマルクス主義的「前衛」からの離脱が民俗学的下層「民衆」への視座の転換によって保証され癒されるという、日本においても繰り返されてきたパターンを踏襲するものであった」と指摘しているが、その是非は留保したい。