明治維新の原動力

現代日本思想体系20 マルキシズム1』より

(1932年『日本資本主義発達史講座』第4回)

百姓一揆

かの徳川封建制支配の三世紀を通じ、そして幕末に近づくやいよいよ激烈にいたるところに爆発せる「百姓一揆」(・・・)、その下からの巨大な圧力をもってせる暴動、ついに圧服すべからざるにいたった暴動の絶えざる爆発こそは、かの封建的階級的生産関係が生産力発展に対してついに桎梏と化せる事実の表現たりしと同時に、それこそまたその封建的階級的生産関係の根本的爆破の革命の原動力たりしものであった。(・・・)いまや反動的ブルジョア・地主の歴史家たちは、明治維新の階級的生産関係の変革を内容とする革命としての歴史的本質を抹消し、それを非歴史的非現実的にいわゆる勤王の言辞をもって塗りつぶし、そを現実から切り離し、かの大衆の革命からひきずられて前進せしめられつつ、ついに民衆の革命に対して反革命の役割を演じたかの下級貴族等勤王志士等を革命家であったのごとく曲折し(後略)

「打毀し」

「打毀し」は封建的末期の急激な社会的経済的変動の下に窮迫せしめられた都市窮民の闘争が米価高騰を直接の動機として激発せしめられた階級闘争であり、(・・・)特に幕末慶応二、三年の江戸・大坂の暴動打毀しは、直接に維新変革に作用せねばならなかった

(1933年『日本資本主義発達史講座』第5回)

「地主=ブルジョアジー

幕末において多かれ少なかれマニュファクチュア化されていたと認められる諸産業ー金属精糖業、織物業、窯業、醸造業等が概して農村地帯に分散していた事実は、何ら幕末における資本の非革命性を物語るどころではない。ブルジョア革命としての明治維新の政治的エネルギーが第一には農村地帯から供給された事実の秘密をこそ、それは物語るものである
(・・・)幕末における資本制生産が一応そのあらゆる形態において存在しており、これをその支配的形態からみればいわゆる早期資本主義の段階として、だがその相当高度な発展段階として規定することができる。近世的世界市場発展行程上における極東の十九世紀三〇ー六〇年代が、支那と日本と朝鮮において一応同一の崩壊=および反撥現象を見出しながら、しかし一方における支那・朝鮮と他方における日本とを異なれる方向、異なれる解決の上に置いた基礎的な秘密は、旧著等に見られるがごとき単なる外部的偶然的な契機にではなく、まさに右の事実に求められるべきであった
封建的地主としての反動的な魂と最初の産業資本家としての変革的な魂とが同一のチョンマゲの下に棲っているこの過渡的な階級層こそ、幕末変革運動の基本的な地盤であった

  • いわゆる『マニュファクチュア論争」

土屋喬雄徳川時代のマニュファクチュア」(1933年9月『改造』9月号)

服部之総の)幕末開港前の日本の経済発展を「厳・マニュ・時代」*2と規定する主張が、実証不十分である点を、私は以上で述べたつもりである。(・・・)私の目的、すなわちマニュ的経営は従来一般に考えられていたよりは遥かに多かったという事実を読者に注意するとともに、それにしても簡単にマニュが支配的であったという断定は未だ困難であるということを指摘する目的は、本篇において大体達せられたかと思う

*結節点としての桐生

「開港以後生糸価暴騰のため、桐生地方では、機業不振状態に陥れる際、織工等の暴動があったと伝えられている事実があり」(羽仁)
「マニュファクチュアおよび資本制家内労働の中心地としての幕末の例えば桐生は、これを産業上の作品としてみれば、江戸よりもはるかに近代的な都市であった」(服部)
「桐生、足利においても前貸制度が多く行われていたらしいが、マニュファクチュアも或る程度まで行われていたと推測される。或る文書によれば、明和頃川股には桐生のための奉公人宿七軒あり、取扱奉公人数は大なるは一軒にて二百人、百二十人、百人を扱い、残りの三、四軒にて、二百七十人から二百八十人を占めていた。そしてその総数は七百人ほどであった。この奉公人宿の機能は織屋に奉公人を供給するにあり、奉公人取極証文を作成し、雇傭者、被雇傭者間に介在して世話料を取った」(土屋)

*1:前著「明治維新史」id:negrict:20050123およびid:negrict:20050130での自説を翻している

*2:マルクス資本論』でいうところの「本来のマニュファクチュア時代」(「つまりマニュファクチュアが資本制的生産様式の支配的な形態となった時代」)を、「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」とする訳語が当時は一般的だったことに由来する