むさし野の涙

『多摩と甲州道中』によれば、多摩郡内藤新田(国分寺市)の百姓惣代を務めた、神山平左衛門(宇宙天とら雄)による「むさし野の涙」(1885(明治18)年編纂)には、御門訴事件(1869(明治2)年から翌年)の記録と共に、武州一揆(1866(慶応2)年)の村方史料が掲載されている。武州一揆の背景には、横浜開港による商品経済の増々の浸透がある。

元治元年の頃より慶応二年に至り諸物価追々おびただしく高値に相成り・・・・・・近年、だんだん生糸が高値になってきたので、人々は田畑へ桑苗を植えることがおびただしく、さらに桑木ばかりを植えて、糠・灰あるいは〆粕を肥料として、養蚕のみを家業のように思い農業を怠り、万事蚕をあてにしていたところ、慶応二年皆無の遺作になり、金融差し支え、その上夫食に不足し、一同活路を失い、妻子を養いきれなくなった・・・・・・

一揆勢が、肥料商を中心とした豪農商を打ち壊しの対象とし、生糸流通(いわゆる絹の道)先である横浜を目指していたという事実が、さらにその背景を裏付ける。また同記録から、この一揆に対する富農の態度と中農・貧農層の態度間の乖離を示す要素も見受けられ、農民層分解が進んでいたことが読み取れる。なお、大河ドラマにも登場した新選組の後援者、佐藤彦五郎に関係する日野宿組合農兵と道場の剣士等はその鎮圧に努めている。