ひとつのメルクマールとしての1863年

調査不足で憶測でしかないのだが、幕末期における剣術の大衆化は、百姓が「侍イデオロギー」におかされたなどという抽象的な理由ではなく、商品経済の浸透によって階層分解が拡大し、社会情勢が不安になるなかで、郷土を守るための具体的な手段として広まったのではないだろうか?
例えば、佐藤彦五郎が天然理心流に入門したのは、1850(嘉永3)年とされるが*1、その前年の日野宿大火で起きた殺傷事件(祖母が殺される)から武術の必要を痛感したことが入門の理由であるという。彦五郎の入門が端緒となり、周辺農村の豪農層の間にも天然理心流は広まっていった*2。これは封建制の根幹の一つである兵農分離という身分制度が下から壊されつつあることを示している。
多摩を含む広大な地域を支配した代官江川太郎左衛門は、1839(天保10)年から、農民から兵を取立てる建議・進言を幕府にしたが、幕府は兵農分離の原則に反するためにこれを却下していた。しかし、やがて幕府もこれを取り入れざるをえない情勢となり、1863(文久3)年には、正式に農兵取立の許可を出している。しかし、これはその支配体制の存立基盤である兵農分離を幕府自らが上から否定するという皮肉なものだった*3
しかしこの上からの領有によって、故郷を守るというパトリオティズムが祖国の防衛というナショナリズムに統合されたわけではない。同じく1863年、多摩から遠く離れた隠岐島においても農兵が組織されることになったが、1867(慶応3)年になって、松江藩庁は農兵の生長を嫌ってその活動を制限し始めた。それに対して、国学者、神主、庄屋、豪農層73人が連名して「文武館」という自主的な教育機関を藩庁に出願したが、藩はこれを拒絶し両者の対立は明確となった。翌年、幕府倒壊の報が届くと島民は郡代を追放し島を支配した(いわゆる「隠岐コミューン」)が、新政府に取り入った藩庁の軍隊に鎮圧される*4
このエピソードを紹介した橋川文三は「たとえば、もしこの隠岐コミューンに似たものが全国各地に凡そ百くらいも次々と出現し、中間的権力機構をそれぞれに排除して全国的にゆるやかなコミューン連合ができたとしたなら、その後日本国家はどうなっていたろうか(中略)もちろん、それははじめ局地的なパトリオットの組織にすぎないから、そのままではまだネーションとはいえないであろう。しかし、もしそこにたとえばなんらかの外国からの軍事的な脅威が加えられたとするなら、このコミューン連合は、(中略)身分と年齢の差別なしに武装して立上がったであろう*5」と言っている。ここに天皇の問題が絡んでくるのだが一先ずそれは措いて、新選組をかなり飛躍してこのラインで考えると面白い。
近藤勇土方歳三は、多摩の百姓のパトリオティズムを基盤として、農兵隊の組織化と同じく1863年新選組の前身である浪士組に参加した。1863年という年は下から壊されつつあった封建制を幕府自らが否定せざるをえない封建制崩壊のひとつのメルクマールであったのかもしれない。その後、多摩の多くの農兵は新選組の甲陽鎮憮隊に加わったが、誕生の背景を同一とする両者はパトリオティズムから新政府軍に立ち向ったのであり、封建制を維持する幕府の手先として戦ったのではない。そもそも封建制はそこには残っていなかったのである。土方は箱館五稜郭まで赴くが、そこでの組織は身分制度を基盤とした封建制組織ではなかった。そこではアメリカ合衆国に倣って選挙が行われ土方も「陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取」に選ばれていた*6。この箱館戦争はまた独立戦争であったことは周知の通りである。

*1:大石学『新選組』、p41

*2:新井勝紘、松本三喜夫編『多摩と甲州道中』、p128

*3:『日野市史 近世編(二)』、p331ー333

*4:橋川文三ナショナリズム」、p89ー91

*5:橋川、p92

*6:大石、p232ー235