パトリオティズムとナショナリズム

パトリオティズムというのもかなり多義的な意味を含んでいるが、ナショナリズムに比べればずっと限定しやすい概念である。日本語ではそれは「愛国心」とか「祖国愛」という言葉で訳されるのが普通であるが、「愛国」とか「祖国」というと、ナショナリズムとの区別がかなり紛らわしくなるきらいがある。というのはパトリオティズムはもともと「自分の郷土、もしくはその所属する原始的集団への愛情であり・・・・・あらゆる種類の人間のうちに広く知られている感情」(Kedourie, Nationalism, P.74)にすぎないからでる。即ち、歴史の時代をとわず、すべての人種・民族に認められる普遍的な感情であって、ナショナリズムのように、一定の歴史的段階においてはじめて登場した新しい理念ではないということである。/しかし、ここでの問題は、こうした原始的な人間の郷土愛は、そのまま国家への愛情や一体感とむすびつくものではないということである。「故郷」はそのまま「祖国」へと一体化されるのではない。/要するにナショナルな感情は「世論の力や、教育や、文学作品や新聞雑誌や、唱歌や、史跡や」を通して教えこまれるのに対し、郷土愛は人間の成長そのものとともに自然に形成されるより根源的な感情なのである。/しかし、この両者の間には、一般に次のような微妙な共棲関係のあることが認められるはずである。/要するに、人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズムは、ナショナリズムという特定の歴史的段階において形成された一定の政治的教義によって時として利用され、時として攻撃されるという関係におかれている。

橋川文三ナショナリズムーその神話と論理」『橋川文三著作集〈9〉ナショナリズム・昭和維新試論』、筑摩書房、2001、p12−16