新選組とナショナリズム

吉田伸之『21世紀の「江戸」 (日本史リブレット)』、山川出版社、2004

江戸の土地空間の入門書*1として読み始めると、冒頭に新選組についての言及がある。そこでは新選組を「侍イデオロギーにおかされた百姓上層の子弟が剣客として目覚め、”跳ね上が”ってもたらしたところの悲喜劇」であり「二十世紀に繰り返し美化・再生されて神話化し、二十一世紀にはいっても引き続き侍愛好家や信奉者のアイドルであり続けている」と位置づけ、例えばイラクに派遣された自衛隊員にも「自分は武士道の精神で来ている」という「素朴な侍イメージ」が存在しているとして、日本人の「侍好き」の問題にふれる。新選組新選組を信奉するような「侍好き」の日本人も「侍イデオロギー」におかされているといっているようだ。確かに新選組に対するパブリックイメージはそんなところだろう。この「侍イデオロギー」は、素朴なナショナリズムの心性にも当然繋がっているだろう。
しかし、それは新選組を「侍イデオロギー」の再生産装置として素朴なナショナリズムの心性を掻き立てようとする、吉田がいう「歴史像を描く側にいる人びとの責任」であり、「百姓をはじめとする名もなき民衆の歴史」として新選組を捉えることも可能なはずだ。大河ドラマの『新選組!』は、超越的に歴史を俯瞰する視点ではなく、名もなき者の下からの視点がかろうじて貫かれていた。『新選組!』の視聴率の低迷およびバッシングは、上からの視点と同一視したいこの国の広い層の心性を裏切ったことが要因であると思えてならない。恐らく近藤勇土方歳三の意識形成には、国家への愛であるナショナリズムではなく、郷土(多摩)への感情であるパトリオティズムが起因しているのだろう。そのパトリオティズムの延長上に新選組は位置しているのである。

*1:武家地、寺社地、町人地というように「江戸の屋敷地空間は、身分ごとに、また社会構造的にも分節化されており、「土地の身分制」とでもいいうる状況にあることが特徴的である」といい、武士と町人が混在した拝領町屋敷の言及はみられない。