大文字中の大文字による「繋がり」

北田暁大嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)』、日本放送出版協会、2005

北田によると、若者たちは、90年代なかば以降、大文字の他者が供給する特定の思想、理念、価値へのコミットを弱め、自らと非常に近い位置にある友人との<<繋がり>>の継続そのものを重視するようになった。他者への接続可能性を高めるための仕掛けは、特定の「思想」や「理念」によって立場を表明し、押しつけてくる振舞いへの違和からくる「思想なき思想」であり、その違和の対象が現在では「左翼」であり、「ナショナリズム」は、その括弧つきが示すように、その対抗軸として偶然的に選択されているに過ぎず、場合によっては「保守」的な価値観をも否定することもいとわない。「イラク人質被害者」バッシングと「北朝鮮拉致被害者家族会」への左右を問わずして起こったバッシングがそれを裏付けているという。
しかし、この二つのバッシングは、「お上に逆らうとは何事か」という高みから、つまり、大文字中の大文字である国家の視点から行われてはいなかっただろうか? 閉じられた共同体のなかにおける最高位を担保として、しくじることのない最高の安全性を確保して言説を紡いではいないだろうか。もちろんこの担保は内輪にしか通用しないが、内輪への接続可能性には最高の信用をもたらすだろう。違和への視点は常に閉じられた共同体のなかの大文字中の大文字であり(国家よりも信用度が高いものがこの国のなかには「一つ」あるのだろうが・・・)、それが「左翼」的なものになることはこの国ではありえないだろう。その意味では「ナショナリズム」は、狭義においては任意のものにすぎないのかもしれないが、広義においては決して偶然とはいえない。