天保期における生産構造の変化

天保中期以降、[生糸商人(生糸販売)→八王子縞市→在方縞買(生糸購買)→織物生産農民(織物生産)→在方縞買(織物集荷・販売)→八王子縞市]*1という関係がほぼ成立した。この生産構造の変化=問屋制賃織生産への転換は、市場の拡大、品質均一化要求の増大、糸価の高騰を契機として発生した。また、織物地帯の生産構造の変化は、他方での生糸地帯における賃挽生産の展開[養蚕農民(繭生産)→生糸商人(繭購買)→生糸生産農民(生糸生産)→生糸商人(生糸集荷・販売]と照応していた。

  • 市場の拡大

天保期以前の縞織生産者は、基本的に自己の所有する生産手段をもって織物を生産し、それを自ら縞市に持運んで販売するという孤立分散的な小生産者であった。だが、都市人口の増大、織物需要の増大が顕著にみられるようになると、このような生産・販売の仕方では、到底その需要に応ぜられなくなる。なぜなら、小生産者が孤立分散的であるかぎり、一方での商品流通の拡大との間には大きな矛盾が生じてくるからである。この矛盾は、小生産の優越している事情のもとでは、少数の富裕者の商人への転化=買占業者の出現という形で解決される以外にない。大販売の小販売に対する純粋に経済的な優越性は不可避的に小生産者を分解させ、さらに市場から切断し、かつかれらを商業資本の威力の前に孤立無援の姿で立たせる。というのは農民の手許における貨幣的富の欠乏、さらに縞・糸の売掛・買掛形式が時期を追って増大しつつあったため購買と支払の時間的分離を大きなものとし、小生産者たちはそれだけいっそう商人・高利貸資本による前貸金融の支配を受けざるをえない状態に追い込まれていったからである。

  • 品質均一化要求の増大

主要顧客であった江戸呉服問屋から、縞織物の品質均一化の要求が集中的に出された。この要求に対して、一つの作業場に多数の労働者を集め、各工程をそれぞれの労働者に専門的に担当させるという方法をとれれば、確かに、規格にあった織物を多量に生産できるかも知れない。しかし、この段階では、それを可能にするだけの技術も資本も、また労働者も得ることはできなかったのでそのような方法をとれるはずもなかった。できることは、農業に合間に賃織稼を行って生計を立てようとしている農民をできるかぎりたくさん組織し、彼らに均質の原材料を貸し与え、且つ、彼らに対する支配力を強めながら、できる限り品質の統一を計らせようとつとめる以外になかった。


天保期に開始された賃織関係の発展段階は、問屋制前貸関係の初期段階であったと要約される。

『 八王子市史 下巻』、1967:1001ー1052

*1:八王子では古くから縞模様の織物を織っていたため、織物は「縞物」、織物市は「縞市」、織物の仲買商は「縞買」と呼ばれていた(八王子郷土資料館 編『織物の街に生きる』、八王子教育委員会、2000)。