試衛館の空間的・階層的位置

近藤勇の義父である近藤周助邦武(周平、周斎)は、1830(天保元)年2月に天然理心流三代目を継ぎ、同年10月に道場、試衛館(試衛場)を江戸に開く。試衛館は市谷(牛込)甲良屋敷にあったとされる(大石、31ー32)。
1849(嘉永2)年10月、宮川勝五郎(近藤勇)を養子とする際に、近藤周助と宮川家との間で証文が交わされた。その証文に「江戸甲良屋敷地面内 近藤周助」と記されており、また、世話人筆頭として記されている山田屋権兵衛は、1851(嘉永4)年の「諸問屋名前帳」によると市谷甲良屋敷の商人であることが判り、試衛館は市谷甲良屋敷に所在したことが確実であるとされる。甲良屋敷は幕府作事方に所属する大棟梁甲良家の拝領町屋である(鈴木、34ー35)。
拝領町屋とは、「武家が拝領した町屋敷を幕府の許可を得て町人に借地させたり、借家させた結果、多くの町人が住み着くようになり、やがて江戸町奉行支配下に組み入れられ、正式な町屋となった場合」をいう。江戸の町人地の官製地誌の基礎資料である1827(文政10)年の「文政町方書上」によると、市谷甲良屋敷は、1618(寛永18)年に開町(許可)され、1713(正徳3)年に江戸町奉行の管轄下に編入され、これを機に「市谷甲良屋敷」は、地域名称の俗称ではなく、正式な町名となる。つまり、甲良屋敷は屋敷ではなく町名である。開町から編入までの間が約1世紀あり、徐々に町屋が出来ていったことがわかる。甲良屋敷は、面積は855坪、町屋数は46軒、内地借が17、家主が12、店借が17である(北原、116ー125)。
町人に貸地して地代を徴収していた甲良家は、幕末以降も当地を所有し、1873(明治6)年の「沽券図」の所有者は甲良匠となっている。「沽券図」の土地評価額は平均43銭であり、周辺の19銭前後と比較すると高く、道を隔てた西側の市谷柳町はさらに高いので、試衛館は最も栄えた西側道路に面した街並にあったとは考えにくく、町内東部の高台、しかも路地を入った場所に存在したと推測される(鈴木、35)。
甲良屋敷の現在の所在地は、東京都新宿区市谷甲良町の「コスモ市ヶ谷」というマンションの敷地の一部に相当するともいわれるが(菊池他、17)が、現在の「市谷甲良町」は、甲良屋敷の東側の武家地が相当し、甲良屋敷は、現在の新宿区市ヶ谷柳町に含まれ(鈴木、35)、東京都新宿区市谷柳町25番地あたりだと推測されている(試衛館跡という注も建っているとのこと)。
その後、1863(文久3)年の浪士組参加時点では「市谷加賀屋敷山川磯太郎方借地」(現新宿区市谷加賀町2丁目と推測)に移転し、慶応3年および4年の時点では道場は閉じられて、「二十騎組組屋敷」内(現新宿区二十騎町1番22、25あたりと推測)に転居したとされる。いずれにしても近い範囲での移転であった。「二十騎組組屋敷」は、御用部屋坊主の津田玄哲に借りていたと推測される。津田は、両国米沢町2丁目に130坪の町屋敷を拝領していたが、これを町人に貸して、自身は当地を借地していた(鈴木、36ー41)。「文政町方書上」によると、拝領地内居住と他所居住との比率は、圧倒的に他所居住が多く、津田のように拝領町屋の地主たちの多くは、自分の土地以外の所に借地、借家していたと考えられる。つまり、この場合は又貸しである。しかも拝領地は売買禁止にも関わらず、相対替えという形式で、土地の売買も実質上行われていたという(北原、137)。
武家拝領町屋成立には、小給の武士には、幕府からの禄では生活できず、町人に土地や長屋を貸したりすることで、地代を取り、生活資金とせざるを得ない経済的背景があった。それは御家人層を小給で抑え、不足分を町人からの地代や家賃で補わせようとする幕府の政策の結果でもある。拝領町屋では、武士も町人も混在して生活している場合も多く、身分的支配による管轄違いという枠組みを超え、生活実態のレベルで下層町人と下層武士が一体になっている。それは同一職名のもとに、居住地域も集団的に管理されていた下級兵士集団の武士団としての実質的解体をも意味している。武家拝領町屋は、町人と武士の混在という空間レベルの問題に留まらず、武士を擁する近世社会そのものの構造的矛盾の都市的表現と考えることができる(北原、135ー136)。試衛館はこうした空間的・階層的背景に位置していた。
拝領町屋は、武家地としての地割り・屋敷割りは変更せず、地面内部の貸長屋普請による空間の効率化で地代店賃を徴収する。それは居住空間の高密度化をもたらし、周囲の武家地との景観的落差を生み、また本来は武家地の一角であることから、町家の面的拡大は望めず、下町のように即商業地化とはならない。むしろ下層町人や奉公人・職人層の居住地区としての町地化と位置づけられる。こうした下層町人層の生活の不安定さは地主層に地代店賃の安定的収入を保証せず、地主である下級武士層と店子の町人層の両層ともに救済機関である町会所の貸付よって危うい均衡を保ちうることになる(北原、184ー185)。
こうした江戸の都市問題は、維新後、新政府によって放棄され、拝領町屋の貧民たちは救育所、養育院の設置などによって社会から隔離されるか、開墾民として送り込まれるなどして不可視な領域に追いやられた。拝領地のうち町会所の貸付金滞納による預地、あるいは沽券地のうち滞納・返済不可能になった上地を含んだ「町会所付地」は「会議所付」として「沽券図」に記載されているが(市谷・牛込でも70件ほどある)、この「会議所付属地」は売却され、その売却金はインフラなどの都市の近代的装備の設置に注ぎ込まれたという(北原、159ー186)。
近藤勇の家族は、1868(明治元)年3月末に中野成願寺に移ったとされ(鈴木、40)、先代から半世紀に渡る近藤家の市谷周辺での生活は幕を閉じた。周知の通り、同年4月25日に、近藤勇は板橋で処刑され35年の生涯を閉じた。


大石学『新選組』、中央公論新社、2004(中公新書
菊池明、伊東成郎、山村竜也 編『新選組日誌〈上〉』、新人物往来社、1995
北原糸子『都市と貧困の社会史 ー江戸から東京へー』、吉川弘文館、1995
鈴木貞夫「「試衛館」と市谷・牛込について」『歴史研究』、 第449号、 新人物往来社、 1998.10