映画を撮ることについて

映画は撮りたい人が撮ればいい。映画に必要とされているとか、されていないとかいうこともレトリックとしてあるだろうが、そのような言い方は好まない。映画を必要としている人は必ずいる。必要としている人が映画を撮ればいい。世界は映画ではない。映画が世界でもない。ただ映画で世界に対峙することはできる。
個人的には、今映画を必要としているのか判らない。もしかすると必要としていないのかもしれない。以前自分は映画を撮っていたが、その強い動機になっていたのは、「他者の他者性」、俗にいえば「恋愛」だった。カメラを向ける対象やスクリーンをみる対象との関係性といった問題が、恋愛に結び付いていた。また、映画をみることが映画を撮ることの動機になっていたことも事実だが、例えばジャン=リュック・ゴダールの映画作品でアンナ・カリーナアンヌ・ヴィアゼムスキーが本を読んでいる姿は、映画的記憶だけでなく、自分の恋愛の感情にも結び付いていたことは否めない。月並みだが、恋愛を自分固有の問題と考えていた。その固有の問題を提示するには映画が一番適していると考えていたし、固有の問題を考えていれば自ずと映画になると考えていた。映画から必要とされていたかは不明だが、映画を必要としていたことは事実だ。 
恋愛は確かに自分固有の問題だが、それはまた相対的な問題に過ぎない。ある映画学校に通っていた時、『愛の対象』という脚本を書いた。その主題は絶対的な愛の対象が相対化されていくということだった。この脚本を実際に撮り編集して上映するといった機会はなかったが、愛の対象が相対化されていくように、恋愛についての映画を撮ろうとする動機は徐々に低下していった。また、恋愛よりも強い感情が生じてきた。その感情は、以前から無かったものではないが、政治や経済といった社会的なものに関することだ。その背景には、不況などの現実的問題がある。スピノザかアランかは忘れたが、感情に囚われているときにその感情を克服することはできないが、その感情について考えている間はその感情から自由になれる、またはその感情よりも強い感情が生じたときに以前の感情からは自由になることができるというようなことを書いていた。
政治や経済といった社会的なものを映画を撮る動機にすること。それは恋愛を動機にすることよりも上でも下でもない。社会的なものを動機にして映画を撮りたい人が映画を撮ればいい。社会的なものと映画との関係でいえば、映画製作を職業にするということがある。映画で生計を立てるということだ。それは個人的には全く出来ないし、あくまでも「自主映画」でいいと考えている。映画製作と生計を立てるという経済活動は別の原理だ。優れた映画監督は、一見映画だけに携わっているかのように見えても、その異なる原理を混合せずに、すばらしい映画作品を作り、次作を撮る経済的機会を設ける。残念ながら自分にはそれはできない。できる人がやればいい。自分がやれば異なる原理を混合して行き詰まるのが落ちだ。実はつい最近まで、この異なる原理を混合していたが、今は混合せずにやっていく方がいいと考えるようになった。脇道に逸れるが、最近よくいわれている「自己実現」や「夢」がなければならないといった言説を鵜呑みにすることは、自分がやりたいことをやるという原理と経済活動の原理を混合することになりかねない。自己実現や夢を隠れ蓑にしているネオリべラリズムの罠に落ちる可能性が強い。映画とは無関係の企業で正規・非正規を問わず労働することと、自主製作で映画を撮ることは何ら矛盾しない。一般的に経済的手段がない場合で持続的に映画を撮るにはその方がむしろ適当だとも考える。
映画を撮り上映することで、社会的なあるものを喚起することは間違いなくあり、今ある世界を変えることに何かしらの影響を与えることもあると信じている。しかし、映画だけで世界を変えることはできない。実際の恋愛に関しても映画だけで済むものではないし、社会的な問題も映画だけで済むものではない。恋愛を映画を撮る動機にできて社会的なものを動機にできないのは単に個人的な問題である。しかし、政治的な(主題の)映画を撮るのではなく、映画を撮ること自体に政治的なものが絡んでいるといったような言説に半ば共感しながら、映画を撮ることで世界を変えることができるかのような錯覚に陥ることは禁じたい。社会的なものに関する感情を動機にして映画を撮ることは今のところ自分にはできない。例えば不平等や貧困といった社会的な問題を解決するには政治や経済の分野でやっていくしかない。ただ繰り返すが、映画を撮ることで社会的なあるものを喚起することは間違いなくあり、今ある世界を別の世界に変えることに何かしらの影響を与えることもあると信じている。
自分が映画を撮らない理由は、生活に追われ目の前の現実しか直視できない生活保守主義になってしまったからではなく、今の自分における強い感情である社会的なものに映画が必要か判らないからだ。映画を必要とすれば映画を撮るし、必要としなければ撮らない。映画は撮りたい人が撮ればいい。それだけのことだと考える。