コミュニケーション能力

求人情報を見ると、求める人材の能力として「コミュニケーション能力」と書かれているのをよく目にする。実際、朝日新聞の調査によると、企業が採用で最も重視する能力は「コミュニケーション能力」であるという(3/20)。アントニオ・ネグリパオロ・ヴィルノ等がいうコミュニケーションが資本的生産そのものに、労働がコミュニケーションそのものになっているということは当たり前のことであるようだ。
同じく朝日新聞でジャーナリストの斎藤貴男が「企業の目的は利潤追求です。採用はそのために働く人を募集する以上でも以下でもなく、「この学生は役に立つか」「使いこなせる相手か」がすべて。そういうものだと割り切る必要があります。往々にして学生は、採用を人格そのものへの評価と勘違いし、失敗=全人格の否定ととらえてしまう。絶対そう思うな、と強調したいですね」というが(3/14夕刊)、「私たちの<全人格>、すなわち、私たちの人格が有するコミュニケーション的・認知的な基礎素質」*1が資本の支配下におかれるような今日では、コミュニケーション能力が欠如すると資本にみなされる若者が、それを「全人格の否定」ととらえてしまうことも当然であるように思える。
そもそも柄谷行人の『探究』で「コミュニケーション」とは「命がけの飛躍」であるということが強く刻まれてしまった身からしてみれば、「コミュニケーション」とはその不可能性とでもいうべきものであり、「コミュニケーション」する「能力」とは何なのかさっぱり判らない。まさか「繋がっている」という感覚そのものでもあるまい。よく面接で友達は多いかと訊かれるが、「あまりいません」と答えることはコミュニケーション能力の欠如と判断されているのかもしれない。しかし、悲観することなく「全人格の否定」としてそれを楽観的にとらえ、別のあり方を模索した方がよほど健全である。ただ、問題はこちらが資本を「否定」する「別のあり方」がほとんどないということだ。ニートは84万7000人で92年に比較して18万人増加しているというが(内閣府02年推計)、資本に包摂されている生活そのものを否定する若者がその中に多く含まれているだろう。「別のあり方」が具体的に創出されれば、ニートやフリーターの問題はかなり解消されると思う。