報道の倫理性についての私論

最近、故あってジャーナリズムに関する文献をパラパラと漁っているのだが、ふと8年ほど前の大学時代に書いた報道の倫理性についてのレポートを思い出して、引っ張りだして読んでみると、個人的なジャーナリズム観は現在とほとんど変わっておらず、改めて書くこともないと判断しそのまま掲載する。

 報道の倫理性。それは出来事を客観的に、中立に伝えればいいということではない。そもそも「客観的」にというのはフィクションであるといってしまっても誤りではないのではないか? 例えば哲学における言説は「何が真実か」を客観的に考察してきたといわれる。しかし、その客観性はそれを考察する主体をあえて隠蔽して現れるものとしてある。また、その客観性は万人に共通するものという想定としてある。その「誰にも見合う基準」が倫理か? いや、それは道徳といった方がいいだろう。万人の判断や行為の基準になるものが道徳である。では何が倫理か? というのを説明するのは難しい。なぜなら、倫理には道徳のような実体がないからである。
 しかし、倫理についてあえていうとしたら、倫理とは「主体の態度」の問題である。つまり「何が真実か」ではなくて「誰にとっての真実か」が問題にならなくてはいけない。例えば、映像を媒介としたテレビの報道をみてみる。カメラを向ければ機械的に記録されるという映像の特性上、ある出来事を客観的に報道していると一見みえるかもしれない。しかし、それを視聴者に伝える人間がいて初めて成立するという事実は、自明の理としてか、または隠蔽されているのか、あまり表立ってこない。それがたまに浮上するときは、決まって道徳という基準に反したときである。つまり、テレビ報道は道徳という基準に沿って作られている。
 では、逆に「これは私にとっての真実である」という視点から、一方的に伝達すればいいのかといえば、それも異なる。ある意味、テレビ報道はすべて「私にとっての真実である」という視点から作られているともいえる。しかし、それが客観的にみえるのは、受容者に見合う報道を送り手が作っているからである。しかし、万人に見合う映像など果たしてあるのか?
 テレビは国民国家のように一つの共同体に属している。その共同体内の最大公約数を想定して報道を制作している。共同体の外にいる者に対しては、あらかじめ切り捨ててしまっている。例えば、映画批評家セルジュ・ダネーが指摘した、戦争という出来事がカメラにおいて記録され、伝達されているようにみえて、実は当事国にとって敵となるものの映像を欠いた予定調和な自己完結したものに過ぎないという湾岸戦争におけるCNNの報道は、正しく共同体内のみを想定して作られたいい例である。この例は「私(アメリカ)にとって」の真実であるが、それは「受け手に見合う真実」を想定して、送り手の主体を隠蔽して成立する、あたかも客観的な装いをした報道の非倫理性を暴露している。この例においての主体的である様(アメリカにとっての真実)と前述の倫理的な態度における「誰にとっての真実か」は似て非なるものだ。
 ダネーは「イマージュが存在するための不可欠な条件は他者性である」というが、それは報道のというか、映像において物事に対峙する倫理性について的確に言い表している。ある出来事に対しての主体の態度を示し、それが受け手の想定に基づくものではなく、他者に向けて放たれるもの、完結せずに常に何かが欠けた映像、それが映像においての倫理的であるものであろう。果たして映像における報道において、そのような他者性を持った伝達を私は受けたことがあっただろうか? テレビにおける報道は私を留めることなく、「今日から明日へ」と次々に流れていってしまう。それはテレビというメディアの特性と報道の特性の両方であるかもしれないが、それよりも作為的な客観性という点が私を留めない原因になっていると考える。
 「誰にとっての真実か?」はその主体である誰かが、対象(存在、事物、事件)の映像と音を奪うことに関して倫理的な痛みを抱かなければならない。イデオロギーに基づいて映像と音を伝達するのではなく、対象を撮影するということに既に政治性が絡んでいることに意識的にならなければならない。そのような態度をもって対象に対峙し、その対象についての主体の考察を他者に伝達することが報道の倫理性であると私は考える。