<いわゆる資本の本源的蓄積>から見た1860年代から80年代にかけて展開された「諸政策」


1.資本の本源的(原始的)蓄積
 いわゆる資本の本源的(原始的)蓄積とは、<資本−賃労働関係>を創出する歴史的過程である。資本主義がいったん成立したのちは<資本−賃労働関係>はたえず再生産されていくが、資本主義成立のためにはこの関係そのものをつくりだすことが必要不可欠の前提条件である。資本主義の成立以前に貨幣財産の蓄積は商業や金融などによって行われていたが、雇用すべき賃労働者が存在しないかぎりは貨幣財産は産業資本として機能しえない。したがって、産業資本の成立の条件は、資本となるべき一定量の貨幣財産の蓄積を前提にすれば、<2重の意味で自由な>労働者すなわち賃労働者の創出にほかならない。このような産業資本の成立の条件を創出する過程は、具体的には農民・手工業者などの直接生産者から生産手段を収奪し、彼らを賃労働者に転化させる過程であって、これが資本の本源的蓄積である。

 
2.重商主義
 資本とは自己増殖する価値の運動であり、歴史的運動へ展開する。資本の支配的形式は商人資本、産業資本、金融資本と変化し、重商主義とは、産業資本に移行する際の、それに対応する経済政策である。購入と販売の差異から利潤を得る商人資本に対して、産業資本は生産手段と労働力を購入して、商品を生産、販売することによって利潤を得る。よって、封建制の根幹である共同体を解体させ、労働力と土地を商品化することが絶対条件となる。重商主義的政策の歴史的意味は、上からの法制度化によってそれらの前提条件を作り、その動きを促進させることである。


3.日本資本主義における重商主義的政策の過程
 日本においては、徳川幕藩体制においても商品経済が徐々に浸透していたが、自然発生的に重商主義段階に入るわけではなく、明治維新がそのメルクマールとなった。
 1867年の大政奉還で幕府から朝廷(天皇)に権力が移譲され、1868年の王政復古により維新政府が成立した。政権の実体は公家と勝利した「武士」の連合政権であった。1869年の版籍奉還により土地と人民を朝廷に返還させ、1871年廃藩置県により藩を廃止し中央集権体制を確立した。維新政府の諸政策は日本資本主義における重商主義的政策を担った。
 
(1)労働力の商品化 
 労働力の商品化には、封建的身分制度が廃止され、契約主体が確立され、時間決めで労働力を売る自由が認められなければならない。そのために、まず四民平等、平民への苗字許可、通婚許可、訴訟上の差別廃止によって、経済外的強制である封建的身分制度を廃止し契約主体を確立した。
 次に1869年の関所の廃止、1871年奇留・旅行鑑札の廃止、同年の宗門人別帳の廃止と1889年の大日本帝国憲法の明文化によって、商品としての労働力の移動の自由である移転・職業の自由を保証した。
 また、1868年の商法大意における株仲間の廃止と1871年の金銀貸借利子の制限の廃止によって、商品市場と貨幣市場における制度的な抑圧を廃し、1872年の地代および家族また傭人給料に関する太政官布告と同年の人身売買の禁止によって、契約主体に実質的相関物を与えた。これらによって営業の自由を保証した。

(2)土地の商品化 
 土地の商品化には、すべての土地についての所有権者が確定され、それが私有財産として公認されなければならない。そのために、1869年1月の「村々ノ地面ハ素ヨリ都テ百姓持之地タルベシ」の布告、同年9月の田畑勝手作許可、1872年の土地永代売買禁制の解除によって、土地の使用と処分に関しての領主的規制を廃止した。そして、1873年7月から1881年の地租改正と1875年の秩禄処分によって、収益に対する規制である封建的生産物地代と土地の共同体的所有関係を廃止し、近代的土地所有を法的に確定した。
 地租改正は、米価変動によって変化する現物地代から固定的な金納の租税(地価の3%)への改編であり、そのために納税義務者である土地所有者を地券交付により確定し、土地収益の資本還元により地価を決定した。秩禄処分は貢粗の取得権である家禄の支給の廃止であり、代わりに一定額の金禄公債が交付された。これらにより同時に、政府の安定した歳入と歳出の基礎が固められた。


3.19世紀末に「遅れて」登場した日本資本主義の「特殊性」
 日本における資本制への移行段階は、世界史的には帝国主義段階への移行期に当たる。よって、植民地化を回避し世界資本主義の間での生産力競争に生き残るために、高度な先行技術、株式会社の制度の輸入により、政府が個別資本の代わりに巨大な固定資本でもって産業基盤を整備した。
 また商品流通の平準化を支える経済システムも整備した。政府発足当初の財政基盤は三都の商人からの会計基立金の借入と政府紙幣の発行であったが、財政の圧迫や信用低下にみまわれ不安定であった。
 通貨制度の統一は、まず対外的な信用を得るために、金銀複本位制であり、円・銭・厘の単位を採用した新貨条例を1871年に布告した。対内的には正貨兌換を義務付けた国立銀行条例を1872年に公布したが、兌換請求が多く流通せず、兌換制度の確立をあきらめ、政府紙幣を準備金とするように条例を1876年に改正した。それにより秩禄処分で発行された大量の公債が資本に転化することになった。しかし、流通紙幣量が増大し、最後の内戦である1877年の西南戦争の戦費の問題も絡んでインフレーションが進行した。その結果、定額利子を受取る旧武士層が没落し、公債を売却し労働力の売り手に転化していった。
 他方、農民の可処分所得は増大し、その買い手となることも可能となり、農民の商品経済化が促進したが、逆に1881年に大蔵卿に就任した松方正義の財政政策によりデフレーションが進行し、農民層は分解され、土地から切り離されて労働力の売り手と化していった。しかし、先行技術の輸入により、資本主義セクターは過少労働力で済み、非資本主義セクターである農村に過剰な無産者を滞留させることによって地代が上昇し、封建的な外観をとどめることとなった。いわゆる近代資本化と農村共同体の残存の「二重構造」である。
 通貨が安定してきたところで、1882年に日本銀行が設立され、1885年には兌換銀行券が発行され、銀本位制による発券中央銀行が成立した。


4.産業恐慌 
 松方の歳出削減の中心的な政策は、官業の民間への払い下げであった。それは上からの資本制の整備が終わり、産業資本への移行を同時に意味する。1890年に産業恐慌が軽工業を中心に起きたことは、資本が自律的に循環し始めた証拠であり、それをもって産業資本に対応する自由主義段階に入った。