資本の移動の自由と労働の移動の不自由

以前、『文學界』2004年11月号で柄谷行人浅田彰大澤真幸岡崎乾二郎「[討議]絶えざる移動としての批評」を読んだ時の違和感をメモする。
 そこでの違和感は、第三世界の低開発が永続するという第三世界論は誤っており(実際は外資導入・輸出志向による原始的蓄積によって従属から離陸する)、それがいわば先進国に折り返された「内なる第三世界」を構成している非正規労働者の有象無象(ネグリ&ハートのいうマルチチュードも)に革命の担い手を求めるのは間違いだと言っていることである。労働運動としての消費者運動の担い手になるのは、結局、購買する商品を選別できる、ある程度可処分所得に余裕のある裕福な層に限定されてしまう。しかし、それは、ある意味、新自由主義的な階層化の戯画にみえてしまう。
 『資本の帝国』でエレン・メイクシンズ・ウッドは「現在でも、資本主義が世界全体で成功をおさめることはできないし、先進国の経済的な繁栄を世界中で実現することはできないという考え方が間違っているのかどうか、どんな大国も資本主義国であるかぎり、搾取の対象となる従属国の経済につねに依存するという想定のどこが間違っていたのか、まだ証明されてはいない(・・・)その理由の一つは、資本主義の至上命令が帝国の支配の普遍的な装置となる世界、すなわち普遍的な資本主義の世界が登場したのは、ごく最近であるということにあるのかもしれない」と資本の命令が世界を包摂している現状を分析している。
 彼らがいうのがこの認識の延長上にあるのならば、現状分析は誤っていないだろう。しかし、それを内なる従属関係にまで及ぼすには無理があるのではないか?ウッドはグローバリゼーションを「ほんとうの意味で統合された世界経済ではない」としている。統合されていないのは、「労働者の賃金や労働条件」である。「グローバルな資本は、少なくとも短期的には、世界の開発状況が均一に<ならない>ことで利益をえている。そして短期的な見方しかできないのは、資本主義の固有の病である。だから世界経済が個々の経済圏に細分化されていて、それぞれの経済圏に独自の社会体制と労働条件が存在すること、そしてこの細分化された経済圏を主権をもつ国家が支配しているということは、資本の自由に劣らず、「グローバリゼーション」にとって重要なことである」
 資本には移動の自由があるが、労働者には移動の自由がない。内なる第三世界は、決して平坦になることはなく、資本のストックとなる。労働者は、後進国の資本の原蓄のように、その従属関係からテイクオフすることはできない。生産労働に力点を置く「働くな」ではなく、消費・流通に力点を置く「買うな」、「別の物を買う」ことができるのは、「ハイブリット車」を買うことのできるような少数のエリート層に限られてしまう。一方、ストックされている多数の有象無象は、経済的に商品をえり好みをすることが難しいのはいうまでもない。ハートとネグリのいうマルチチュードは、確かに楽観的で抽象的であるが、少なくとも有象無象を担い手にしようとする点では好感が持てる。必要なのは、多数の有象無象が革命の担い手となるその具体である。

1月18日加筆