「農」をどう捉えるか?

大河ドラマ新選組!』の時代考証も担当した大石学は、『新選組』で、服部之総の封建的な遅れた多摩地域という位置付けに対して、多摩を含む江戸周辺地帯は、江戸周辺における以下4つの主要因を通じて、江戸の首都機能を維持・強化した点において、首都圏とも呼ぶべき地域であったという位置付けを与えている。

(1)鷹場制度
「生類憐れみの令」で一時中止されていたが、享保の改革において復活し、鷹場地域の村々は同質化・一体化すると共に、庶民の行楽地としても再編成された。

(2)新田開発
享保の改革の新田開発によって、野菜を需要、糞尿を供給する江戸と野菜を供給、糞尿を需要する武蔵野の巨大なサイクルが形成された。

(3)街道
多摩と江戸を東西に結ぶ街道として、甲州街道、青梅街道、五日市街道があった。甲州街道では、中馬(荷馬による輸送)を利用した甲州産の葡萄、梨、煙草、繰綿、甲斐絹などが商品として江戸へ運ばれた。青梅街道では、多摩から江戸へ向けて、野菜や木綿織、絹織物、青梅縞などが運ばれ、また御嶽山参詣の道としても賑わった。五日市街道では、炭が江戸へ運ばれ、江戸市中の炭消費量の大半を賄っていた。

(4)上水
江戸における市街地の拡大により水需要が増加し、多摩川から水を引く玉川上水が作られた。


→以上のネットワークの形成からみて、多摩地域の「農」は、商品経済の波が及び、単に封建的なだけではないと考えられる。