原始的蓄積の風景

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映画は都市に属し、誰も正確には、生きられた経験、農民の空間ー時間に根付いた「農民映画」が存在することを知らない。

(『批評空間』00年2期24号)

(ミシェル・クレイフィは山形を)非常にパレスチナに近い感じがすると言った。いまは確かに山形市は近代化されているけれども、風景や人間の立ち居振る舞いのあちこちに農民的な文化の痕跡がある、と。(略)ヨーロッパにはすでに一世紀半に及ぶプロレタリアートの時代がある。これが都市文化の基底をすっかり変えてしまった。いまのベルギーの労働者には自分たちの先祖が農民であったという記憶はほとんどない。それに対し、都市部のごく一部の人たちを除けば、日本人の多くは、何世代か前は農民だったという記憶をどこかで抱えているんじゃないか。

  • 高祖岩三郎「大地に棲むこと、領土に住むこと」(『現代思想』04年1月号)

ニューヨークの空間は、領土として幾重にも(再)構成されて行くが、その綻びの間から、始めの暴力がきわめて実質的に顔を出している。「領土」のそこここから「大地」が顔を出している。それは土地の領有、使用、居住における階級闘争、つまり現代のスクワッター問題にも繋がるような形で顔を出している」
「ニューヨークに来る多くの観光客は、「世界文化の中心」を見に来るのかもしれないが、その後でただそれを追認して帰ることは、この街の民衆史という観点からするとあまりに悲しい。何とか、都市を感受する想像力として、現前する建造物の下にどのような層が眠っているか、あるいは未だに目覚める可能性を持って仮眠しているのか、という不可視の領域を透視する目を開発することはできないものだろうか?どこまでも均質化しつつある世界の風景の中に、そのような「契機」を発見することは可能だろうか?