前期重商主義の時期ー徳川時代ー

大内力『大内力経済学大系〈第7巻〉日本経済論(上)』より

1.徳川時代
一応は封建社会であったといえるが、鎌倉時代に完成した封建制度は、商品経済の発達によって足利時代末期には崩れ始めており、その諸条件が促した織豊政権による、商人の保護とその貢納に財政基盤の片足を置く絶対王政の性格を内包した「再編封建制」であった。それは自然経済を基調とする「純粋封建制」の社会ではなく、当初から相当に発達した商品経済を基盤にもった社会であり、武士の城下町への集中による消費者層の構成、参勤交代制による交通の発達と商品経済の全国的展開、更に農業生産力の上昇による農産物の商品化と商業的農業の発達によって資本の原始的蓄積が進展し、遅くとも18世紀に入る頃には崩壊期=過渡期に入った。


2.農産物の商品化

  • 領主的商品化(蔵物)

(農民)年貢米→(藩)禄米→米穀市場→掛屋・札差(高利貸資本)の勢力増
(特に幕末の雄藩)小物成による特産物、専売制による各種生産物→大坂市場

  • 農民的商品経済化(納屋物)

(農民)余剰米→(あるいは地主)→地域市場(あるいは大坂、江戸市場)
(都市周辺農村)藍、紅花、茶、煙草、漆→大坂、江戸の全国的市場
(都市周辺農村)野菜、菜種油、薪炭、竹木→地域的市場

  • 棉作(中部以西の平坦村を中心)

農業生産資材の商品化、経営全体の商品経済化促進→金肥使用増大(江戸、大坂で市場化)
加工過程の分業化→小型マニュファクチュアの展開
開港後、輸入綿糸に圧倒され衰退する。

  • 養蚕(丹後、但馬を別にすれば、関東、東山及び南東北の、特に山よりの地域中心)*1

労働集約的、労働配分偏向、高リスク生産、価格不安定→低生活水準、潜在的過剰人口依存
開港後、生糸が主要輸出品となり、養蚕→製糸→織布の生産過程は分断され、国内の絹織物生産は原料不足に陥る。その後、第二次大戦までの間の日本経済発展の基盤を形成する。


3.商品経済浸透の地域差
領主的商品経済化の場合には、直接生産者は市場から遮断され、農民層の分解が阻止されるが、農民的商品経済化による場合は、農民層の分解と一部の民富の形成がより強く進むと考えられる。天領の地域は特に農民層分解が著しいが、それは天領が江戸周辺、大坂周辺などの商品経済化が進んだ地域に分布していたためであり、また交代する代官による統治などで封建的支配力が脆弱であったためである。逆に専売制を強いていた雄藩は、農民層分解が最も遅れた地域であった。


4.民富の形成
一部商人、豪農だけでなく、町人、小地主から自作上層にいたるまで経済的余裕が生まれてきたが、他方で都市、農村を問わず大量の貧困層の堆積が生じた。民富の形成は、剰余生産物が残留するようになったことが要因だが、200年に渡って戦争がなく、道路、河川の改修、開田等の社会資本が充実したことも一因である。旅行の盛行による人々の短期的な移動は、交通や商業の発達を促しただけではなく、文化の全国的な伝播をもたらし人的組織を作り出した。農村から都市への流出による中・長期的な移動は、都市と農村の文化的格差を小さくし、均質な社会へ近づけていった。

*1:但馬(19%)、信濃(11.6%)、上野(9.2%)、武蔵(7%)、甲斐(5.4%)