多摩の養蚕業

児玉幸多・杉山博『東京都の歴史』(山川出版社)より

  • 養蚕業の発達

多摩地方の養蚕業は、近世から発達し昭和初期まで盛んであった。多摩丘陵地帯では、黒八丈とよばれた絹織物、また青梅縞の名で知られた綿織物を産出した。これらは農家の婦女が農間稼ぎに織るもので、反物は、本人または仲買人によって織物市に売り出され、江戸に流通した。18世紀後半には、青梅・八王子・青梅新町・拝島・伊奈・平井の7カ所に市がたち、年間1万2000反から4万反の取引が行われた。江戸の呉服問屋は、買役を派遣し、産地に買宿を設けた。次第に買宿は、産地での集荷の役割を持つようになり、呉服問屋から買付資金を借りて織物を買い集めた。その理由は、江戸住民の需要の高まりと地廻り商人の江戸への直売の増加であった。八王子では、幕末には関西市場へも進出した。

  • 開港による影響

1858年(安政五年)の横浜開港によって、生糸・緑茶・蚕卵紙・海産物などの商品が主要輸出品となり、それらの価格が騰貴し、諸物価があがった。ほとんど消費生活をしていた江戸の士民は、大打撃を受けたが、それを保護するために1860年(万延元年)閏3月の江戸廻品令によって、雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の五品は、産地から江戸の問屋に廻送して販売し、残りがあれば横浜に輸送することになった。その反面、横浜の商人が大打撃を受け、横浜と江戸の商人の対立、さらには神奈川奉行江戸町奉行との係争を引き起こし、また攘夷運動を盛んにするきっかけともなった。養蚕が盛んな武蔵の多摩・入間・比企の諸群や相模の高座郡方面の山よりの地帯では、絹・紬・黒八丈などを織って付近の市場へ出していたが、原料の生糸が輸出品として買い集められ、糸価があがって、多数の織屋・農民は休業状態になり、八王子・青梅などの集散地は大打撃をうけ、倒産する仲介商が続出した。江戸廻品令も救済するには十分ではなく、同年11月に縞買商人50人が、生糸貿易の禁止を嘆願したが無駄に終わり、農民の困窮は一層深まり、幕末の農民蜂起の経済的契機となった。