臨界下における認識

戸坂[潤]は、[・・・]学術的な(解釈学的)哲学とジャーナリズムが連んで抹消した、抑圧された歴史のベールを剥ぐことの必要性を認識していた。日常生活のイデオロギー的基礎の形成に手を染めたジャーナリズムが「日刊」という枠組みに繋ぎ止められている一方で、哲学は日常性をまったく無視し、リアルなことの運動と同時代的な出来事の動向をともに超越するといった熱望に駆られていた。[・・・]ジャーナリズムは出来事への日常的批判を供給するというみずからの目的を棄て、他方で哲学は実証的証拠と事の真偽を供給することに失敗している。/新聞は「国史」を日々垂れ流す大衆的な捌け口として機能し〔その結果、〕出来事は、その「哲学的」原理が明らかにされないにもかかわらず、こうした国民的解釈学という媒体をとおして掴み取られるほかなくなっている*1

何年か前に資本の論理における競争・効率性を求めるばかりに、文字通り臨界点を超えてしまい大事故となったケースがあった。また昨日も恐らく似たような原因から生じたであろう惨事が起こった。こうした中で必要とされるのは、危機的な状態(臨界点)において、どう意識化してその状態を捉えるかという認識である。その認識を「批判(批評)」といってもいいだろう。
この批判性の欠如は、資本あるいは資本の論理を強迫的に受け入れざるをえない労働者=現場だけではなく、批判性を最も必要としなければならないはずのジャーナリズムにも当て嵌まる。個人に対する誹謗中傷のような情緒的な報道をするのではなく、構造的な原因を意識化し伝達することが本来のジャーナリズムの役割であろう。しかし、この国のジャーナリズムは、そのような原因を作った組織ではなく、ある意味、結果における個人への攻撃に傾く陰湿さを持っている。
この国のあらゆる分野で市場原理の浸透、規制緩和が行われているが、今までに臨界点を超えてしまいそうな瞬間が多々あっただろうし、これからもあるに違いない。ジャーナリズムはお上の臨界越え政策をヨイショするのではなく、これらを批判的にチェックし続けるべきである。さもなければ、資本も国家もやがて臨界点を超えてしまうだろう。

*1:ハリー・ハルトゥニアン「Shadowing History」『情況』、2004年10月号、[ ]内筆者