信用と恐慌

以前、与信管理の職務に携わっていたことがあった。与信とは字義通り「信用を与えること」である。信用とは「きみを信用している」といった”trsutの”意味ではなく” credit”の意味である。
通常の買い物は、貨幣と商品を交換することによって成立する。売り手は買い手を信用できる人物か調査する必要もなく、どんなに怪しそうな買い手であっても貨幣と引き換えであれば商品を渡すことができる。逆にどんなに善良そうな買い手であっても貨幣がなければ商品は売ることができない。買い手は自分が何者で、信用できる人間かを示す必要はない。貨幣さえあれば、無意識であれ信用の有無の判断がついている。つまり、貨幣の中に信用が凝縮されている、貨幣がすべての世界である。
しかし、クレジットカードでの買い物では売りと買いの間にタイムラグがある。買い手はクレジットカードを差し出し、売り手はカードの機械的な作業を通して問題がなければ、その場での貨幣との交換を経ず商品を売ることができる。しかし、売りと買いの間にタイムラグがあるということは売り手が買い手に信用を与えているということだ。買い手に何だかの信用不履行があれば、買い手はカードを提示しても商品を買うことはできない。つまり、creditとは給付と反対給付の間に時間的なズレを伴う取引=信用取引のことである。この信用取引は企業間取引がダイナミックに発展した要因のひとつである。
信用取引では、商品を渡した時点では、買い手から貨幣をもらうことができず、支払いの約束を確認するのみである。将来の約束の日に貨幣がもらえるかどうかは確実ではなく、その「もらえないかもしれない可能性=リスク」を背負っている。よって信用を与えるということはリスクと一体になっていてその管理を必要とする。そういうわけで信用創造する銀行においてはいうまでもなく、企業(特に商人資本=商社)においても与信管理という職務が必要とされる。この信用取引は資本制経済の縮図であるといってもいい。売りと買い、買いと支払いの分離という信用取引のフィルターを通して考えてみると、日常、現金取引をしているときは無意識に流通している貨幣に凝縮された秘密が意識化されてくる。
貨幣も実は遠い将来受け取ってくれる誰かがいることを想定し、それを無限に先延ばしすることによって信用を保ち流通している。しかし、その誰かがいなくなるとすれば、信用の体系は崩壊し資本制経済は瓦解する。人々が商品よりも、いつでもどこでもどんな商品とも交換できるという可能性=貨幣を欲しがるというケインズのいう「流動性選好」から生じる恐慌は、現在もその真っ只中であるが、それは資本制経済にとって本質的な危機ではなく、逆に貨幣を求めることは、貨幣を受け入れる将来に対する信用が保証され、それを空手形(まさに貨幣は手形である)にしないための資本制への熱烈な期待の表明にほかならない*1。そのように岩井克人*2あるいは柄谷行人*3がいうことが図らずも具体的に認識できたことは不幸中の幸いだった。

*1:言い換えれば現在において将来を保証するとともに将来において現在を保証するということ

*2:貨幣論 (ちくま学芸文庫)

*3:定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス