左翼とはマイナーである

ドゥルーズがどこかで「左翼とはマイナーであることが必要だ」といっていた。自分自身のことをいえば、性質か環境かは判らないが、マイナーである(あらざるをえない)ことを志向する(してしまう)ので、日頃は「私は左翼である」と思っている。もちろん無意識にメジャーな言説や立場に立っていることもあり、「私は左翼である」というのは、いわば「私的言語」であるが、自分で意識している中ではマイナーであることによって疑いもなく左翼なのである。
しかし、個人差があってどこまでが無意識か意識かの客観的な基準は明瞭ではないが、個人的には、無意識ではなくはっきりとした意識で、メジャーな立場に立っていることを認識することもある。非常にありふれた例だが、労働の場で、下っ端から部下を持つ立場になるとか、そうした立場になった場合、左翼であると自己規定しても何ら効力がない。パワーハラスメントや、部下が女性である場合(場合によっては男性でも)、セクシャルハラスメントといった言説に集約されるメジャー/マイナーの非対象な関係のメジャーな立場に自分を置くことになってしまい、その関係から逃れることはできない。もちろんメジャーであることは仮初な立場であり、もっと大きな構造からしてみれば、メジャーな立場を強いられるマイナーな存在なのかもしれない。そうはいってもメジャーな立場からものを見ざるをえないのは自分の意識の中では変わらない。ドゥルーズは「左翼であることは政治の問題ではなく、知覚の問題である」と同じところでいっていたが、左翼であることは確かにどれだけ知覚できるか、認識できるかということなのかもしれない。もちろん、それは政治を軽んじていいということを意味しない。左翼であることを掲げている政党や個人が、メジャーな立場に身を置いた場合どう振る舞うのか? それは知覚の問題であろう。