共産主義とは・・・と考える

ガタリネグリの『自由の新たな空間』の新訳が出版されている*1。「「共産主義」という言葉には汚辱が刻印されている。なぜだろうか? この言葉は集団的創造を可能にする労働の解放を指し示すものであるにもかかわらず、人間が集団主義の重圧のもとに破壊されるという事態の同義語になってしまったからだ。それに対して、われわれは、共産主義とは、個人的・集合的な特異性の解放への道であると考える」。

*1:フェリックス・ガタリアントニオ・ネグリ『自由の新たな空間』、杉村昌昭訳

映画は共産主義に似ている

スガ秀実がいっていた。「失われたフィルムを、かつて誰かが見たことが「私」を嫉妬させはしない。その人とて、今その映画を見ることはできないからだ。「私」が嫉妬するのは、ただ、かつてその映画があったという事態のみである。これは、ほとんど恋愛そのものではないか。「私」が恋の嫉妬に狂うのは、相手が誰か他人と一緒にいるからではなく、彼が(彼女が)本質的に不在であるがゆえに、憧れて(恋をして)いるのだ*1」。

*1:「映画は共産主義と似ている」『LEFT ALONEー持続するニューレフトの「68年革命」』所収

間歇的な不実

いつかこんな夢をみた。グラウンドの真ん中で野球の試合が四方八方で行われている。ちょうどそれぞれの試合の外野にあたるところ、言い換えると多数の外野の入り混じるところに、ある女性とふたりでいるのだが、話もせず、終始様々な方向から飛んでくるボールに落ち着かない態度をとる自分がいるだけである。ある女性は怯えているのか平静でいるのかよく判らない。そういった夢をみなくなって久しい。ロラン・バルトはいう。「耐え忍ばれる不在とは、忘却以外のなにものでもない。つまり、わたしは間歇的に不実となるのである。それが生き残るための条件なのだ。忘れることがなければ、わたしは死ぬだろう*1」。

「分配における正義」より

民主制社会においては、公益に訴えることが一つの政治的慣行となっている。いかなる政党も、何らかの承認された社会的利益に不利となるような立法を要求するとは公言しないであろう。だが、哲学的観点からは、このような慣行は、どのように理解されるべきなのであろうか。たしかに、それは、(パレート的な形での)効率の原理以上の何かであり、我々は同時に二つ以上の観点について最大化することはできないから、民主制社会のエートスを所与とすれば、最も不利な状況にある人々の観点を選び出し、平等な市民の諸自由と相容れる形で彼らの長期的な見通しを最大化するのが当然である。そのうえ、我々が正義にかなっていると最も強く確信する諸政策は、明確にこの階級の福祉に少なくとも寄与しており、従って、それらの政策は全般的に正義にかなっているように思われるのである*1

*1:ロールズ「分配における正義」(『公正としての正義』所収)

リベラル左派勢力の再編を

季刊雑誌『SIGHT』の特集「反対しないと戦争が終わらない」のインタビューに加藤紘一菅直人が出ている。個人的にはこのふたりを中心にリベラル左派*1勢力の再編を行ってほしいと思っているので象徴的な人選だ。加藤紘一は先日『強いリベラル』という自書を出版し、保守系リベラルの結集を呼びかけているというが、自民党内部の内輪話ではなくさらに左に翼を広げ、菅直人民主党の左派を集結させ、さらに社民党辻元清美新党日本田中康夫らとも連合し、一大リベラル左派勢力を築くことは非現実的なのだろうか。
加藤紘一は、インタビューの中で「自民党にはリベラリストがたくさんいる」といい、菅直人は「民主党はすっきりリベラル政党とは言い切れない/私個人ではいくらでもスッキリしたことは言えるんだけどね」という。ならば、たくさんいるリベラリストがスッキリしたことが言えるような政党を作ることが現実的だと思うのだが。加藤紘一菅直人も政治家ならば自分の政治信条や政策を実現できるような政党を作る義務がある。さもなければ、議会制民主主義の国であるはずなのに政治的選択がほとんどできない現状を追認することになる。中道左派なんて糞だという見方もあるが、中道左派勢力がほとんどない国は民主主義国家とはいえない。

*1:以下「リベラル左派」も「中道左派」も同意味で使う

雨が降るように人が死ぬ

昨年の朝日新聞朝刊に立岩真也が延命医療について「この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない」と述べていたことを思い出す*1

*1:その後「初歩的なことを幾つか」として『希望について』に所収

正義

ジョン・ロールズは「公正としての正義」で「正義」について次のようにいっている。「正義は、通常の意味においては、社会的諸制度のもつ多くの徳性のうちのただ一つのものを表しているにすぎないと理解されるべきである。というのは、社会的諸制度は、不正義でなくとも、時代遅れであったり、効率がよくなかったり、品位がなかったり、その他諸々のことであったりすることがあるからである。正義は、善き社会についての包括的な理想像と混同されてはならない。正義は、何らかのこのような理想像の考え方の一部分にしかすぎないのである」。また「正義とは、諸々の競合する利害や対立する要求が存在すると仮定され、そして、人々がお互いに自分の権利を主張しあうと想定されている場合の、実践の徳性なのである」。よって、「一つの目的」のために、「私利を捨てて力をあわせて働」くような「聖者達の共同生活」があるとすれば、「正義をめぐる争いなどはほとんど生じそうもない」という。