「分配における正義」より
民主制社会においては、公益に訴えることが一つの政治的慣行となっている。いかなる政党も、何らかの承認された社会的利益に不利となるような立法を要求するとは公言しないであろう。だが、哲学的観点からは、このような慣行は、どのように理解されるべきなのであろうか。たしかに、それは、(パレート的な形での)効率の原理以上の何かであり、我々は同時に二つ以上の観点について最大化することはできないから、民主制社会のエートスを所与とすれば、最も不利な状況にある人々の観点を選び出し、平等な市民の諸自由と相容れる形で彼らの長期的な見通しを最大化するのが当然である。そのうえ、我々が正義にかなっていると最も強く確信する諸政策は、明確にこの階級の福祉に少なくとも寄与しており、従って、それらの政策は全般的に正義にかなっているように思われるのである*1
リベラル左派勢力の再編を
季刊雑誌『SIGHT』の特集「反対しないと戦争が終わらない」のインタビューに加藤紘一と菅直人が出ている。個人的にはこのふたりを中心にリベラル左派*1勢力の再編を行ってほしいと思っているので象徴的な人選だ。加藤紘一は先日『強いリベラル』という自書を出版し、保守系リベラルの結集を呼びかけているというが、自民党内部の内輪話ではなくさらに左に翼を広げ、菅直人は民主党の左派を集結させ、さらに社民党の辻元清美や新党日本の田中康夫らとも連合し、一大リベラル左派勢力を築くことは非現実的なのだろうか。
加藤紘一は、インタビューの中で「自民党にはリベラリストがたくさんいる」といい、菅直人は「民主党はすっきりリベラル政党とは言い切れない/私個人ではいくらでもスッキリしたことは言えるんだけどね」という。ならば、たくさんいるリベラリストがスッキリしたことが言えるような政党を作ることが現実的だと思うのだが。加藤紘一も菅直人も政治家ならば自分の政治信条や政策を実現できるような政党を作る義務がある。さもなければ、議会制民主主義の国であるはずなのに政治的選択がほとんどできない現状を追認することになる。中道左派なんて糞だという見方もあるが、中道左派勢力がほとんどない国は民主主義国家とはいえない。
正義
ジョン・ロールズは「公正としての正義」で「正義」について次のようにいっている。「正義は、通常の意味においては、社会的諸制度のもつ多くの徳性のうちのただ一つのものを表しているにすぎないと理解されるべきである。というのは、社会的諸制度は、不正義でなくとも、時代遅れであったり、効率がよくなかったり、品位がなかったり、その他諸々のことであったりすることがあるからである。正義は、善き社会についての包括的な理想像と混同されてはならない。正義は、何らかのこのような理想像の考え方の一部分にしかすぎないのである」。また「正義とは、諸々の競合する利害や対立する要求が存在すると仮定され、そして、人々がお互いに自分の権利を主張しあうと想定されている場合の、実践の徳性なのである」。よって、「一つの目的」のために、「私利を捨てて力をあわせて働」くような「聖者達の共同生活」があるとすれば、「正義をめぐる争いなどはほとんど生じそうもない」という。