精神論が跋扈する

阪神タイガース鳥谷敬選手は、5打数2安打3四球とすべて出塁するも木戸克彦から元気がないと批判されている*1。果たしてこれで評論家なのだろうか? こういった精神論はありふれた有害な例である。少なくとも5回出塁しながら1度もホームに返せない後続の打者を批判するのが適当であるはずだ。それが元気を出せとは。目の前に起こっていることから眼を逸らし、抽象的な精神論に逃げ込むムードにはいやはやうんざりする。「美しい国」を始め、今この国を覆っているムードに酷似している。


同点打を許した際の鳥谷の守備に対する批判*2も同様である。VTRでみると確かに捕ることは出来たかもしれないが、鳥谷のクレバーさが飛び込む行為の邪魔をしたのだろう。「ショートとしてのセンスが問われる」としているが、何度鳥谷の好補で救われたことか。それをすべて相殺し「ショートとしてのセンスが問われる」というのはどうしたものか。「“飛ばない”鳥谷に虎党ガックリ…2安打も拙守じゃ」というが、自分は虎党だがガッカリしていない。こうした文句にガッカリする(6/24追記)。

今こそ鳥谷を1番に!

日本国のアホ首相が「美しい国」とほざいているが、「美しい国」なんて目指すものではなく、ましてや「美しい国」の本質や実体なんてどこにもない。各人が各人に応じてあるものやことを「美しく」思ったり、「醜く」思ったりするだけである。「国」に対しても例外はない。個人的には「美しい」と思う「国」はどこにもない。そうはいっても、「美しい」と思うことやものが皆無ではもちろんない。たとえば「美しい」と思える人がいる。下世話に「美しい」(容貌をしている)と思う人(ようするに好みの問題)もいないといえば嘘になるが、特に美しく感じる人はなぜかスポーツ選手が多い。その理由は、大岡昇平の『俘虜記』に出てくる米兵の眼のあたりに現れた一種の憂愁の表情の美しさ、「対象を認知しようとする努力と、次に起そうとする行動を量る意識の結合が、(しばしば)こうした悲しみの外観を生み出す。運動家に認められる表情」の美しさからであるかもしれないが、それが原因であるかは判らないし、知る必要もない。
元F1ドライバーのミカ・ハッキネンなど「美しい」と思えるスポーツ選手がいたが、阪神タイガース鳥谷敬は、今、個人的に「美しい」と思えるプロ野球選手のひとりである。といってもその窮屈そうなバッティングフォームが美しい訳でもなく、守備が(エラーの数よりもずっと堅実ではあるが)華麗であるわけでもない。理由が判らないと何度も繰り返すことになるが、判りやすい物語でいえば、例えば昨年のオールスターゲームで、直球勝負だとかフルスイングだとかいった醜い体育会的な雰囲気の中で、その選球眼の良さと場の雰囲気を読めない実直さから、ひとり平然と四球を選んで、一塁ベースに向かったところは非常に美しかった。とにかく理由は判らないが鳥谷が「美しい」と思える選手であることは事実である。といってもやはり好みの選手である理由は、鳥谷の走攻守揃った野球の能力を信じ、好んでいるからなのだろう。
そういった鳥谷だが、球場で観戦する際には、恐らく阪神ファンと称する人たちから、単なる日ごろの欲求不満をぶつける対象として特に選ばれることが多いようだ。また球場だけでなくウェブ上でもやたらと攻撃されているように見受けられる。そうした光景はサヨクを罵って欲求不満を解消している光景と良く似ている。今年タイガースが不調の主因を鳥谷を1番にしたことという文句がどんなに多かったことか。残念ながら鳥谷独りの出来でチームの出来を左右してしまうほどには未だ至ってないし、不調の主因は、やはり井川が抜けたことが大きいだろう。
岡田監督は頑固な監督だが、そうした声に押されてかどうかは不明だが、鳥谷を1番を外して主に6番を打たせている。しかし、鳥谷の打率はそう高くはないが、(6月22日現在の)出塁率は実はタイガースの規定打席中で1番高く、リーグでも12位であり、他チームの1番打者の中で鳥谷よりも上なのはヤクルトの青木と読売の高橋のみで、横浜の仁志よりも中日の井端よりも鳥谷の方が上である。1番打者には出塁率が高い選手を置くという教科書的なセオリーがあるならば、鳥谷を1番に置くことが最も実際的である。個人的には出塁率の高さなどの数字で鳥谷を1番に置くことを好んでいるのではない。1番という打順が好みであり、また鳥谷が1番を打つところを見たいという不合理な理由に過ぎない。鳥谷は打順は何番でも関係ないと平等主義の発言を好み、それは人間として非常に好ましく思うが、野球は平等主義ではなく、1番の方が6番よりも階層が上なのはいうまでもない。鳥谷は未だ化けていない。阪神ファンならば鳥谷を化かしたほうが阪神の未来にとって合理的であるのは間違いない。1番に日替わりに庄田選手や桜井選手を起用し、一喜一憂するのではなく、鳥谷を1番に起用し続けることが鳥谷を化かす最善の方法であり、阪神を強くする最善の方法であると思う。今こそ鳥谷を1番に!

プラグマティズム

ローティは「プラグマティズムデイヴィドソン・真理」(『連帯と自由の哲学』所収)で、「次のテーゼを堅持する立場が「プラグマティズム」ということになる」という。

(1)「真なり」は説明用法を持たない。
(2)信念と世界との間の因果関係を理解すれば、信念と世界との関係について知るべきことを、すべて理解したことになる。「に関する」とか「について真」とかいった言葉をいかに適用するかーこれに関するわれわれの知識は、言語行動に関する「自然主義的」説明の副産物である。
(3)信念と世界との間には、「真ならしめられる」という関係はない。
(4)実在論反実在論との論争は、無益である。なぜなら、そのような論争は、信念は「真ならしめられる」という、空虚な、誤解を招く考えを、前提にしているからである。

ヘビの環節

村上龍の『13歳のハローワーク』に「この世の中には2種類の人間・大人しかいないと思います/2種類の人間・大人とは、自分の好きな仕事、自分に向いている人間で生活の糧を得ている人と、そうではない人とのことです」とある。この文句に惹かれたこともあったが(今だに惹かれることもある)、このような言い方はむしろ有害だと思う。自分で自分の仕事を決定できる能動的な社会であればいうことはない。しかし、現実は不透明な受動性に多々規定されてしまう社会である。そのような偶然性を適度に調整できるような社会の方が必然性の社会よりも望ましいと思う。
『働きすぎる若者たち』の阿部真大のように、こうした『13歳のハローワーク』的な見方への批判が若年層から出ているのは使い勝手がよい。それは、ドゥルーズが『記号と事件』でいう「自分たちは何に奉仕されているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように。ヘビの環節はモグラの巣穴よりもはるかに複雑に出来ている」ことを多少なりとも解きほぐしてくれる。

「やりがい」による使い捨て

続いてハンス・アビングは、人は合理的に振る舞うという経済学者の予想に反して芸術に身を投じる人が絶えない理由を次のようにいう。
「新規参入者の期待が極端に高く、それにはある種の救済を求める地点にまで達していることが挙げられる。結果的に、これらの新参者たちが失望したとき、彼らはその失望を隠す。そして次の世代もまた誤った情報が与えられる。この点に関しては移民が置かれた状況と類似している」。
こういった状況は「やりたいこと」を誘導するような分野の仕事にもいえる。前職の会社は、理念が崇高だが、給料が安く、労働時間が長いなど職場環境は劣悪だった。しかし、奉仕型志向の人間が理念の実現を求めてそれなりに入ってくるので、辞めていく人間が絶えなくとも経営努力をせずに成立してしまうようだった。金儲けを目的にする普通の会社では考えられないことだ。給料が安く、長時間労働の会社なんて誰が好んで入るのだろうか? 「やりがい」で、多くの志の高い若者を使い捨てにしてはならない。

芸術と就職

大学進学を芸術学部に選択したのは就職に不利だとされていたからだ。自分にとって「就職する」ということは「死ぬ」にも等しいことだった。ハンス・アビング「金と芸術」に次のようにある。
「七〇年代には、私の仲間の多くの学生が、ブルジョア社会を非難し、「普通」の仕事には就かないと主張した。彼らは自分たちがあまりにも「変わって」いるか、社会が「異常で」「病んで」いるかのどちらかであろうと感じていた。いずれにしろ、芸術は彼らにとって聖域だった。このような極端な見方は今日では時代遅れだが、多くのアーティストがいまもなお、芸術は退屈な日常への(ロマンティックな)対案を提供し、しばしば平凡な仕事に代わる何かを提供してくれると信じている」。
今では「死ぬ」にも等しい「普通」の仕事に就き、退屈な日常を生きている。それを肯定することはできないが、芸術を「普通」の仕事のロマンティックな対案とはもはや信じてはいない。といってもニヒリズムに陥ることもない。ただ芸術を仕事とは別に単に芸術としては信じている。

『アメリカ』に出てくるバルコニーの青年

フランツ・カフカの『アメリカ』(『失踪者』)で、深夜2時にバルコニーで勉強をしている青年がどういうわけか昔から気になっている。ストローブ=ユイレの『アメリカ(階級関係)』を見てからか。青年は学生で昼はデパートの販売員をし、夜に勉強をしているという。青年はいう。「ほかにしようがない。いろんなことをやってみたが、これがいちばんだ。数年前は昼も夜も学生だけ、そのかわり餓死しかけた。古ぼけた汚ない巣穴で寝起きしていた。あまり身なりがひどいので教室へ出るのに気がひけた。昔のことだ」。また次のようにもいう。「・・・学問か、勤め口かときかれたら、むろん勤め口を選ぶとも。この選択が正しいのを実証するために勉強しているようなものなんだ」。