2005-01-01から1年間の記事一覧

ひとつのメルクマールとしての1863年

調査不足で憶測でしかないのだが、幕末期における剣術の大衆化は、百姓が「侍イデオロギー」におかされたなどという抽象的な理由ではなく、商品経済の浸透によって階層分解が拡大し、社会情勢が不安になるなかで、郷土を守るための具体的な手段として広まっ…

パトリオティズムとナショナリズム

パトリオティズムというのもかなり多義的な意味を含んでいるが、ナショナリズムに比べればずっと限定しやすい概念である。日本語ではそれは「愛国心」とか「祖国愛」という言葉で訳されるのが普通であるが、「愛国」とか「祖国」というと、ナショナリズムと…

新選組とナショナリズム

吉田伸之『21世紀の「江戸」 (日本史リブレット)』、山川出版社、2004江戸の土地空間の入門書*1として読み始めると、冒頭に新選組についての言及がある。そこでは新選組を「侍イデオロギーにおかされた百姓上層の子弟が剣客として目覚め、”跳ね上が”ってもた…

大文字中の大文字による「繋がり」

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)』、日本放送出版協会、2005北田によると、若者たちは、90年代なかば以降、大文字の他者が供給する特定の思想、理念、価値へのコミットを弱め、自らと非常に近い位置にある友人との>の継続そのものを…

フリーターの定義

1.厚生労働省『労働白書』、2000 年齢は一五歳〜三十四歳と限定し、(1)現在就業している者については勤め先における呼称が『アルバイト』または『パート』である雇用者で、男性については継続就業年数が一〜五年未満の者、女性については未婚で仕事を主に…

試衛館の空間的・階層的位置

近藤勇の義父である近藤周助邦武(周平、周斎)は、1830(天保元)年2月に天然理心流三代目を継ぎ、同年10月に道場、試衛館(試衛場)を江戸に開く。試衛館は市谷(牛込)甲良屋敷にあったとされる(大石、31ー32)。 1849(嘉永2)年10月…

府中周辺農村の農民層分解

下染谷村持高別階層表 1835(天保6)年には、70石以上の所有者が出現する一方、3石以下が無高も入れて約過半数を占め、著しい両極分解が伺われる。 1725 1767 1788 1835 (享保10)(明和4) (天明8) (天保6) 階層区分 名…

新選組とフリーター素描

juxtaに掲載されました。 http://www015.upp.so-net.ne.jp/juxta/text/details/ti/ti1.htm

日野周辺農村の農民層分解

日野周辺においても3石未満が過半数を超え農民層分解が著しく進展している。 日野各村農民階層表(1870(明治3)年) 85~90石 1軒(0.2%) 55~60石 1軒(0.2%) 50~55石 0軒(0%) 45~50石 2軒(0.3%) 40~45石 2軒(0.3%) 35~40石 1軒(0.2%) 30~35石 0軒(0%) 25~30石 5…

八王子周辺農村の農民層分解

合計数字は年代的には1849(嘉永2)年〜1873(明治6年)に渡り統一されていないが、少なくとも、幕末から維新にかけて地域差を伴いながらも農民層分解が著しく進んでいたことが伺える。50~100石 44戸(0.2%) 30~50石 10戸(0.5%) 20~30石 13戸(0.7%) 10~20…

天保期における生産構造の変化

天保中期以降、[生糸商人(生糸販売)→八王子縞市→在方縞買(生糸購買)→織物生産農民(織物生産)→在方縞買(織物集荷・販売)→八王子縞市]*1という関係がほぼ成立した。この生産構造の変化=問屋制賃織生産への転換は、市場の拡大、品質均一化要求の増大…

多摩地方における農民経済の変化

武州多摩郡小比企村(八王子市) 安永期(1772〜1780年) 1773(安永2)年以降、現物納が田畑とも年貢を貨幣で納めるようになった。また名主、八王子商人、さらには江戸・神奈川・川越等の米商人によるかを問わず、米が領主の手を直接経ること…

水呑百姓率からみる農民層の分解

本百姓(田畑所有)と水呑百姓(田畑無所有)との比率をみると、多摩郡横山村の水呑百姓の比率は、江戸周辺地域と比較しても非常に高い。また、一概に比較できないが、この比率は農民層の分解が最も進んでいる大坂周辺の河内・摂津・和泉の比率に近い。これ…

農民層の分解

大内力『日本における農民層の分解』東京大学出版会、1969 農民層の分解は、抽象的にいえば、自己の生産手段を所有し、自己の労働によって生活をささえていた農民のうち、その一部分が富裕になって資本家ないし地主に上昇していくとともに、他の一部分が…

いわゆる「絹の道」

1859(安政6)年の横浜開港により生糸が主要輸出品となり、八王子の生糸商人(鑓水商人)たちは「浜道」と呼ばれた道を通って生糸を横浜まで運搬した。この道は戦後「絹の道」と呼ばれるようになった。生糸が主要な輸出商品となった要因は、生糸生産が…

歴史における反復

柄谷行人は、「近代文学の終わり」(『早稲田文学』,2004.5;4〜29)において、資本の支配的形態に関する興味深い指摘を、井原西鶴、尾崎紅葉、北村透谷を通して行っている*1。その部分を要約する。 北村透谷は、尾崎紅葉の「伽羅枕」を「粋」と呼…

必然的に国家を経由する暴力

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『千のプラトー―資本主義と分裂症』 必然的に国家を経由する暴力があり、この暴力は資本主義的生産様式に先行し、「根源的蓄積」を構成し、資本主義的生産様式そのものを可能にしている。資本主義的生産様式の中に入…

むさし野の涙

『多摩と甲州道中』によれば、多摩郡内藤新田(国分寺市)の百姓惣代を務めた、神山平左衛門(宇宙天とら雄)による「むさし野の涙」(1885(明治18)年編纂)には、御門訴事件(1869(明治2)年から翌年)の記録と共に、武州一揆(1866(慶…

農民日記から見る時勢の認識

新井勝紘・松本三喜夫編『多摩と甲州道中 (街道の日本史)』によると、上椚田村(八王子市)の千人同心の家の「石川日記」(1720(享保5)年から1912(明治45)年まで)、小野路村(町田市)名主で同寄場組合惣代である小島政則の「小島日記」(18…

網野史学の衝撃

網野善彦『日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)』より 周知のように、網野善彦は、江戸時代にいたるまでの「百姓」の中には、「農業」を生業とする農人だけではなく、商人、職人、問屋、廻船人、漁民、髪結、宿屋等の多様な生業に従事する人々が含まれ、また、…

明治維新の原動力

『現代日本思想体系20 マルキシズム1』より 羽仁五郎「幕末における社会経済状態・階級関係および階級闘争」 (1932年『日本資本主義発達史講座』第4回)「百姓一揆」 かの徳川封建制支配の三世紀を通じ、そして幕末に近づくやいよいよ激烈にいたる…

羽仁五郎「清算明治維新史研究」

(1928年10月『新興科学の旗のもとに』) 内田義彦・大塚久雄・松島栄一編『現代日本思想体系20 マルキシズム1』 服部氏また野呂氏がいわゆる「わが封建制度の内在的矛盾の激化」といわゆる急襲する「欧米資本主義の波濤」とを、必然の連絡なきもの…

服部之総の徳川時代把握ー純粋封建制ー

服部之総『明治維新史』(青木文庫) (1928年3〜4月『マルクス主義講座』) 徳川幕府は武家支配の全国的中央機関である。それは一つの統一ではあるが、純粋封建的統一であって国民的統一ではない。人民は、土地と共にそれぞれ諸候の私民であり、幕府…

多摩の養蚕業

児玉幸多・杉山博『東京都の歴史』(山川出版社)より 養蚕業の発達 多摩地方の養蚕業は、近世から発達し昭和初期まで盛んであった。多摩丘陵地帯では、黒八丈とよばれた絹織物、また青梅縞の名で知られた綿織物を産出した。これらは農家の婦女が農間稼ぎに…

前期重商主義の時期ー徳川時代ー

大内力『大内力経済学大系〈第7巻〉日本経済論(上)』より1.徳川時代 一応は封建社会であったといえるが、鎌倉時代に完成した封建制度は、商品経済の発達によって足利時代末期には崩れ始めており、その諸条件が促した織豊政権による、商人の保護とその貢納…

バンリユーとサバービア

今橋映子編『リーディングズ 都市と郊外―比較文化論への通路』より バンリユー(la banlieue) フランス語で「郊外」。「バン=領主の布告」が及ぶ「リユー=里(約四キロ)」が語源。パリでは、ブルジョワは城壁内に居住することを好み、労働者は壁の外に追…

ファスト風土化する日本

三浦展『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)』を読む。 「ファスト風土化」とは、日本中の地方で「過去20年ほどのあいだに」起こった現象を示す「ファストフードに引っかけた造語」であり、「それは、直接的には地方農村部の郊外化を意味す…

多摩の「心」とは

多摩の「心」(「しん」と読むそうだ)とは、東京都によると、東京の都市としての急速な発展の過程において、業務機能の過度の集中にともなう都心部の人口の空洞化、職住の遠隔化、交通混雑などの都市問題が深刻化し、都は、職と住の均衡ある都市を育成し、…

バンリユー

ポール・ヴィリリオ『速度と政治 (平凡社ライブラリー)』 エンゲルスは「絶望した大衆は、パンと労働を、さもなくば死を、と要求した」と書いているが、実際には、当時「労働者大隊」と呼ばれ、強制的に地方へ追放されるか軍に入るかしなければならなかった…

服部之総の明治維新観

服部之総『明治維新史』(青木文庫) (1928年3〜4月『マルクス主義講座』) 明治維新は決して単なるブルジョア革命ではない。ブルジョア革命を言う限りにおいて、それはようやく明治四年に至って上から着手せられ、六年ー十四年に下から継続せられて…